この場合の「時をかける少女」は大林宣彦版である。
我らの永遠のアイドル原田知世版である。
ジュブナイルSF。もどかしい恋。
なかなか会えない。
僕が高校生ならあと10回は見たと思う。
今後十年パクり元になるであろう、
素晴らしいストーリーテリングだった。
オリジナル脚本だっていける、そういう流れになってほしい。
音楽PVになってる減点、最初15分が退屈な減点、ちょっと寒い芝居の減点は、
ストーリーの出来映えに比較すれば、大減点ではないだろう。
以下ネタバレ。
大体どうやればこれが出来上がるか、
シミュレーションしてみよう。
1. ジュブナイルな恋愛ものが欲しい。
たとえば「時をかける少女」のような。
2. 一方、往年の「君の名は」のようなことがあると、
面白いんじゃないかという直感がある。
今のラブストーリーが詰まらないのは、
スマホやネットのせいだ。
つまり、なかなか会えない恋愛ものはいいんじゃないかと思う。
3. 1から、「転校生」という男女入れ替わりものを思い出す。
尾道三部作のような感じはいいよね。
4. ただの男女入れ替わりなら平凡だ。
夢を見るように、離れた男女が何故か入れ替わる、
というアイデアはどうだろう?
5. 何故会えないのかを詰める。スマホで検索すればすぐ会えちゃうから。
夢だから、起きたらどんどん忘れていく、というギミックをつくる。
感情だけがあって、記憶がない状態はせつない。
6. 一人は東京、一人は田舎。
東京はイタリアンでバイト、田舎は神社の子。
巫女の家系だから不思議な能力があってもおかしくない設定。
7. 二人は一日偶然入れ替わり、相手の人生を体験する。
入れ替わりものなんだけど、起きたら元に戻ってるとか。
8. あなたは誰だ?となり、情報を記録し、このおかしな現象の謎に迫って行く。
9. しかし、会えないことにしよう。
時間がずれてるのはどうだ。
10. しかも、どっちかが死んでるのはどうだ。
11. それを知り、阻止する話はどうだ。
たとえば「今、会いに行きます」みたいな感じだ。
つまりどこかで一回だけ奇跡が起きて、
死んだあとでも入れ替わりが起きて、
どこかで意識が通じ会う瞬間があるんだ。
12. なんだかんだあって、死ぬのを阻止する。
しかし、入れ替わりの記憶がどんどん薄れていくんだ。
夢のように。
13. そして、東京ですれ違うんだけど気づかないんだよ。
でもなんか気づく。観客はそこにヤキモキするのさ。
そう、「天国から来たチャンピオン」みたいな感じだ。
会えばピンと来て、きっと何もかも思い出すんだ。
たとえば橋の上で出会う。
そうして言うんだ、「君の名は」ってね。
こういう風に作ったことが予測される。
あとは、ディテールを詰めていくのである。
神社の祠で一度だけ奇跡が起こる、とか、
実は死んでるのが、世間にも知られる大事件であったとか。
(脱線事故、天変地異、銃乱射、大火事などなど。
火事の名残は神社の由来にあったね)
岩井俊二の名が協力のクレジットにあった。
企画当初は、岩井の実写としてこのストーリーが練られた可能性がある。
「花とアリス」を彷彿ともさせるからだ。
新海誠に決まった経緯は不明だが、
彼のデビュー作「ほしのこえ」を見ていれば、
遠く離れた二人の想いの表現が上手だということはわかるはずだ。
おそらく、彼が入ってから、
その大事件が、「彗星の墜落」になったのだろう。
アニメなんだから、派手なほうがいいと。
逆算で、隕石湖のある田舎町、というビジュアルが作られたはずだ。
彗星の墜落は、劇中にもあったけど、
シューメーカー=レビ彗星の分裂(木星へ墜落)から、
ヒントを得ていると思う。
イタリアンレストランの先輩といい感じになるとか、
田舎の三人の高校生が協力して大事件を止める
(発破を使う、放送部、市長の娘)のは、
岩井俊二の匂いがしたなあ。
その辺はなんだか岩井の得意とする「アニメっぽい実写」っぽいもの。
さらに推測を続ける。
このストーリーは、おそらくプロデューサー主導である。
川村元気氏のやり方だと思う。
ストーリーの大体をつくり、
得意そうな有名監督を呼んでくるスタイルだと思う。
ロケ地を有名にしたい、音楽を有名にしたい、
という商売上の理由が透けて見えるからである。
新海が「秒速5センチメートル」で山崎まさよしを使ったのは、
そもそもそれにインスパイアされたからであり、
今回の楽曲のような使い方をするためではない。
にも関わらず、この楽曲の使い方は、
まるで90年代のドラマの、タイアップの使い方のようであった。
とても商売上の理由が透けて見える。
作り方が、透けて見える。
それは、
プロデューサー主導で、
商売上の理由をつけて金を集め、
先行する作品からエッセンスを抜き出し、
それを元に何か新しいアイデアを足してスタートさせ、
どこかでどんでん的アイデアをつけ足す方法論だ。
そこまで作ったら、得意そうな監督を呼んでくる方法論だ。
いま、このやり方しか方法論がないのだろうか。
ストーリーを表現する十二分の予算は、
こうしないと集められないのだろうか。
オリジナルの企画をつくり、金を集めるのは、
監督や脚本家ではなく、
プロデューサー主導しかないのだろうか?
なにもかも、プロデュース的には完璧だった。
作品の出来は上々だ。
おれらオッサンも大好きだし、
時かけオリジナルを見たことのないジュブナイル達は、
この感覚がたまらないだろう。
(上に挙げた元ネタを見てないなら、是非見るべきだ。
どれも傑作ぞろいだよ)
しかし、このやり方しかないのか?
という疑問だけが残り、日本映画の仕組みの闇を見ることになってしまった。
俺はこのやり方を蹴った。
企みの傀儡になるつもりはない。
別のルートから上るとするさ。
今後、このやり方でもう数本成功作が生まれれば、
少しは流れが変わるかも知れない。
しかしそれは、先行する名作のミックスを、
それを知らない世代に向けてつくる、
ペプシ桃太郎のような商売の仕方になるかも知れない。
「君の名は。」はそれを感じさせない、
素晴らしいストーリーテリングであった。
惜しむらくは、テーマらしきものの不在だろうね。
2016年09月12日
この記事へのトラックバック
エンドロールで岩井俊二氏の名前を見ておお!っと思いました。
枝葉に反応してすいません
個人的に今考えてるのは二人があそこまで互いを好きになった理由なんですよね。
好きだと自覚するシーンはあったけど理由が明確に語られたシーンは無かったような。
そこに理由は要らないと言われればそれまでですが。
秘密を共有しあったことで得た共犯的なつり橋効果なのか。
互いの生活を補完しあったことで互いの価値を認め合ったのか。
「恋の最終目的は同一化」と考えて、同一化体験をしたことで一気にニコイチとなったのか。
そのへんもご意見きかせてもらえたら嬉しいです
何にせよ名作でした。
高校生の恋なので、互いが「会いたい」と強く望めば、
それは真の恋だと思います。
だから社会人になって再会したとして、
一瞬燃え上がるけど、二人は結婚までいかないんじゃないかなあ、とおじさんは想像してしまいます。
初恋と、生活(大人になって背負うもの)は別だよね。
若いときのひと夏の燃えるもの。それだけで十分じゃあないかなあ。映画は、その一瞬を切り取る役目もあります。
逆に、結婚なんて色々考えず若さでしたほうが、少子化を防げるんじゃないかな。
そういう学生結婚のラブストーリー、流行らせられそう。
ちなみに並走する電車での再会、
僕、中目黒出前の日比谷線と東急線の並走で出したことがあるんです。
脱線事故でおじゃんになって自分の中では封印してて、やられたと思いました。
若いときは、奇跡が起きるだけで魔法になる。
それがリアルだと思います。
面白くていい映画でした。
が、ラストの構成で、少しつっかえたような感覚を覚えました。
彗星から皆を避難させれるか?
というターニングポイントと、
二人は会えるのか?
というのが同時にきているような気がして、
今どっちを楽しめばいいんだ?となってしまったからかと自分では分析します。
なんていうか、彗星から皆を避難させることと
二人の恋は関係なくない?と言いますか…
いや結果的には歴史改編したから二人が会えた!ハッピーエンド!となってるので関係はあると言えばあるのですが…
上手く言葉にできなくて申し訳ありません。
このなんとも言えないつっかえたような
感覚を持ってしまう原因はなんなのか?
よろしければ、監督のご意見を聞かせて頂けると嬉しいです。
かたわれ時の二人の邂逅で、
瀧:会って好きだと伝えること
三葉:皆を避難させること
というのは明確になります。
実際、瀧の動機の実現のためには、彗星から三葉を助けなきゃいけない。
ご都合主義ともいえる入れ替わりによって、
それを実行しきる、というのが普通の話でしょうが、
そこに入れ替わりが途中で終わる、というもうひとひねりが入った構造なわけです。
また、新海はセカイ系だということを忘れちゃいけません。
セカイには、瀧と三葉しかいないので、
町の人を救うかどうかは瀧には関係なかったりします。
町の人を救いたいのは三葉の目的です。
ということで、町が救えることと、会うために命を救うことは、ずれてはいますが利害が一致している、というか。
自分達の都合のために歴史改変を行うのは、
そういう意味で全てセカイ系かも知れません。
全部自分のためだから。
その違和感は、たとえばバックトゥザフューチャーにも感じます。
ビフの未来を改変する権利はマーティにあるのかなあと。
まあ、勧善懲悪とか、命が救われたとか、
いい方面には許される暗黙の感じがあるのは否めません。
もっと微妙な例は「オーロラの彼方に」で見ることも出来ます。親父の為に世界変えすぎ。
そもそも二人の入れ替わりは、何故何のために起こったのだ?
物語のご都合の為なのは否定できませんが、
新海という人は昔から同じことをしていることを知れば
(ほしのこえからして、遠距離恋愛の為の戦争)、
今回もそうだなあと思いながら見れたりします。
新海誠監督作品は今回が初だったのですが、
セカイ系を得意とする人だったのですね。
彼の他作品と例題で提示して頂いた「オーロラの彼方に」も観てみようかと思います。
どうもありがとうございました。
>僕、中目黒出前の日比谷線と東急線の並走で出したことがあるんです。
並走する電車でヒロインを見つけるというのは、小中和哉が「星空のむこうの国」でやってましたね(リメイクは見てませんが)。
「星空のむこうの国」も源流は「時をかける少女」などのNHK少年ドラマシリーズにインスパイアされたものなので、イタダキなのか偶然なのかは知りませんが。
新海は「ほしのこえ」がひどい、「天気の子」もひどい、という私的評価だったので、最近やっと三本目の「君の名」は見ました。
二人がクレーター付近で初めて出会う展開には膝を打ちましたが、そこに至るまではちょっと退屈でしたね。
あと事件後のエピローグも長すぎる気がしたけど、あれはむしろ長くやりたかったんですかね。
新海作品としては最高傑作でしょうね。
大岡さんの評価が極めて高いので、もう何度か見て分析した方がいいかな? と思い直しました。
「ほしのこえ」は作り手として尊敬します。
たった一人で脚本と絵を全て描き、
たった一人でフルアニメーションを作り上げた執念。
究極の自主映画ですからね。
いつかやってみたいけど、体力的に無理だろうなあ。
シナリオとしては普通だけど、
背景のセンス(その後色んなアニメが真似した)や、
遠ざかっていく悲しみみたいな表現に優れています。
そしてそれが、その後の新海誠の通奏低音に必ずなっていると思います。
僕はおもしろいものを見た時、
「どうやってそれをつくれるか?」と、
時計を分解するように分解します。
何もない状態から自分が「君の名は。」を思いついて、
シナリオの完成稿にするまでをシミュレートしたりします。
大林宣彦のジュブナイルSFがベースにあるのは明らかで、
それをどう現代的にするか、
という手法に唸りました。
この物語のオリジナリティは、
隕石が落ちた街と、入れ替わりの時間軸がずれていること。
この頭ひとつ抜けたアイデアとその着地が評価するべき点でしょう。
細かいところは変だったり、
リズムがおかしかったり、
エモーションが繋がってないのを、
無理矢理音楽で一体化したりと減点が多いですが、
「自分が思いつき、実行できるか」
という一点において評価していますね。
シナリオは完成度じゃなくて、突破力だと思います。
>たった一人でフルアニメーションを作り上げた執念。
「ほしのこえ」はまさにその点で過大評価されすぎだと思っているのですが。
演出もエヴァとかのエピゴーネン的で独自性がないと感じました。
それはともかく「君の名は」は細かく分析なさっているようですので、じっくり読ませていただこうと思います。
いつもありがとうございます。感謝しております。
たぶん自主制作映画のレベルの低さをご存知ないのでしょう。
PFFの佳作とかひどいもんですよ。
自主映画として見たか、商業映画として見たかの違いのようですね。
私がガチの商業映画目線で見過ぎたということでしょうか。
レンタルとはいえ当時、ちゃんとしたレンタルビデオ屋でお金を払って見たので(笑)。
狂い咲きサンダーロードも自主だけど劇場公開したし、
カメ止めも自主制作みたいなもんだし、
商業かどうかは、「金になると思ったプロデューサーがいたかどうか」
の違いですかね。
あるいは、「最初から金になると思って作っている」
(結果は不問)が商業の定義かもしれない。