実際、商業ベースの脚本では、
何度もリライトすることは、よくあることである。
自分の例でいえば、「いけちゃんとぼく」の脚本は、
40稿以上のリライトがあり、編集後にアフレコの台詞を数稿書き直している。
その経験の反省もあるんだけど、
冒頭15分は、最後の最後に、もう一度書き直したほうがいいと思う。
「いけちゃんとぼく」でも、
ご多分にもれず登校シーンから作っている。
そもそもファーストシーンのじいさんばあさんはなくて、
泡から始めて、世界に絶望→登校、
という流れだったのを、
海辺のじいさんばあさん→溺れる→登校、
という風に書き直させられた。
これによって、登校シーンで日常をセットアップする勢いがなくなり、
ただの(話が始まるのが遅い)退屈なシーンになってしまったと思う。
そもそも撮影時には、いけちゃんがいじめを妨害するが透けてしまう、
というシーンだったのが、
編集時になくなり、ただの暴力シーンになってしまったのも、
話の立ち上がりが遅いと感じる原因だ。
表にすると、
もと:
泡、世界に絶望する
登校、いじめを阻止するいけちゃんは透けて見えない
ラスト:
じいさんばあさんの謎めいた伏線
泡、世界に絶望する
登校、暴力、そのあとにいけちゃんが感想を言うだけ
のような変更を受けたわけである。
でもそうするならば、溺れるシーンはいらないはずだ。
しかもこれは「いけちゃんの登場シーン」としての役目を追わされ、
撮影時には計画していないCGを作ることになり、
無理の生じたシーンでもある。
ここを削るならば初登場シーンは門柱になってしまい、
なにがなんだか分からなくなるので、
僕はじいさんばあさんのシーンを切ることを提案したが、
プロデューサー二人に反対された。
さて、
言いたいことは、このように、
冒頭だけでぐちゃぐちゃになりがちだ、ということである。
それは、最後が決まっていないと、
これがいる、あれがいらない、と議論すべきではない。
なんせ、クライマックスの野球のシーンを切れとまで議論が及んだんだぜ?
「このストーリーは何を達成する話か」という議論が、
徹底的にぶれていたから、あの映画は脚本がよれがちなのだ。
僕は「少年の成長と見守る存在と思わせておいての大どんでん」
と原作通りに認識していたら、
「タイムスリップするせつない女のラブストーリー」ととらえている奴らもいたんだ。
(宣伝部は特にそうだった。
だから恋するばあさんがタイムスリップする所から始めるべき、
という論すらあった。バカらしいにも程がある)
勿論、首尾一貫させる権利は僕にはなかった。
デビューとはそうやって牙をもがれることであるから。
僕の愚痴はどうでもよく、
つまりは、それだけ、商業ベースでは、
様々な意見が対立し、その結果、
日本人的な玉虫色の結論になることが多いということだ。
つまり、この場合でいえば、
ヨシオが傷つく場面と、婆さんを共存させよう、とね。
そうすれば各派がちょっとずつ痛み分けになるよと。
それはストーリーを政治の道具に使っているということであり、
ストーリーを面白くすることとは関係がなく、
むしろストーリーをダメにしていると僕は思う。
誰々の意見が通ったことが大事なのだから。
で。
冒頭15分とは、つまり、ラストからの最大の逆算でなければならない。
前記事で「君の名は。」の冒頭15分の退屈さについて分析した。
カフェへの憧れ、親友二人のイチャイチャはあとに回すべきで、
「お前は誰だ?」を先に走らせるべきだったと思う。
それは、あの映画の本質が「二人が出会うまでの話」だからである。
やっと本題。
つまり、冒頭15分は、ぐちゃぐちゃになりがちなのだ。
それを整理できるのは、脚本しかないのである。
一回白紙にして、
この本質を描く最も適切な導入の冒頭15分はなにか、
を、白紙から書いたほうがたぶんいい。
あれもこれもは入らない。
入れたら多すぎて退屈するのは、「君の名は。」を見ても分かるだろう。
拙作を分析しても構わない。
目をつぶって、
本質を導入するのに適当な冒頭15分をさがすこと。
だから、冒頭15分は、リライトの最後に、
もう一度やるといいんじゃないかな。
そうすれば、オープニングを切る判断も、出来たと思うんだ。
あとのまつりになっては、遅い。
撮影前にそれはやること。
2016年09月12日
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