多くのストーリーは、謎とその解明が筋である。
いや、逆に、
謎と解明こそが、「人間の物事の理解の様式」なのである。
(仮説)
謎「なぜ惑星などという不思議な動き(順行したり逆行したり)があるのか?」
→仮説「天が動いていて、惑星は二重または三重の円運動をしている」
→仮説2「太陽の回りを同心円で動いていて、地球もそのひとつで、
惑星の不思議な動きは、地球からの見かけの動きである」
→観察、ケプラーの法則の発見、幾何学的証明
→ニュートンの万有引力、運動方程式により、よりシンプルな法則性へ
などの歴史を考えると、
それはストーリーそのものであるような気すらする。
謎がある。
そこに仮説をつくる。
そうだと思って進行していたら、
それを覆すことがある。(繰り返しあり)
それが明らかになり、謎が解けた。
たとえば。
この気持ちは何だ?
恋か?肉欲か?
ちがう、運命だった。
というのは、ラブストーリーにおける謎と解明だ。
誰が殺したのか?
当初は○○だと思われた。
しかし真犯人は△△だったのだ。
これは△という動機の殺人だった。
というのは、ミステリーにおける謎と解明だ。
変な事件だ!
これを解決しなきゃ!
しかしそれは意外にも、さらに大きな○○の一部だったのだ!
解決したら、結局こういうことか。
というのは、殆どの良くできたストーリーの定式ではないかと思う。
これがストーリーの定式だという根拠は、
どんでんにあると思う。
ある謎が、一瞬で解明されたら、それは記憶からなくなる。
ある意味自動化されるからだ。
(海が青いのはなぜ?→空を反射してるから。
一回理解したらあまり問うことはない)
ある謎があり、一瞬で直感的な解明をし、
それに従って進めるのだが、
実はそうではなくて、こうだったのだ。
その意外性が、記憶に残るのではないだろうか?
普通そうだと思うだろ?違うんだ、というのが味噌なのだ。
天動説は直感的だが、地動説が覆す意外性がある。
しかもその方が合理的だという解明つきで。
恋は直感的だが、それは偶然ではなかったという意外性があり、
それは運命だったという解明つきだ。
犯人は直感的な人ではなく、真犯人が別にいたという意外性があり、
それが合理的だという解明つきだ。
そのようなものを、人は好み、理解し、受け入れ、記憶しやすいのではないか、
と僕は考える。
ストーリーとは、
謎に興味を持ち、
直感的な解明をし、
意外性のある展開をし、
それが解明される。
そういうものが、記憶に残るのではないか。
で、それを起承転結というんだけど。
起承転結の方法論は、三幕構成より使えない。
三幕構成が「尺に関する方法」を持っていることが原因だと思う。
起承転結を1/4ページずつ書くわけにいかないから、
起承承承承転結、なんて説明されることもあるけど、
これじゃ承承承承のところが詰まらなさそうだ。
だから起の中にも起承転結があり、承の中にも起承転結があり…
なんて説明されるけど、これもページ数に関する理論ではないので、
実のところ使えない。
だから、ページ数に関する構成論を持つ三幕構成のほうが、
実践には使いやすい。
ところが、意味性、骨格だけを抽出すれば、
起承転結の方法論は、とても本質的ではないかなあ、と思った次第だ。
実際の映画では、
起承転→承転→承転→…→転結
がいいのかも知れない。
これをさらに巨視的に見れば、起承転結になっているだけかもね。
「君の名は。」は実際この構造で、
途中の転がとても面白かった。
以下ネタバレ。
僕が面白いと思った、転部を列挙してみる。
記憶がなくなったんじゃなくて、遠く離れた誰かと、入れ替わってる?
女子力の高さで、デートまでこぎ着けた!
会いにいく。
彗星によって、その町は壊滅していた。
つまり、三年違う時空にいた。
三年前、東京で出会ってた。
かたわれどき、会えた。
気持ちが繋がったと思ったら、日が沈み、忘れてしまった。
ストーリーを紡ぐということは、
こういう面白い連鎖を組みつつ、
矛盾しないような結末へ誘導し、
全てを解明したときに、こういう意味があったのだと、
解明への旅に意味のあるものを、
言うのかも知れない。
(「君の名は。」は、その意味=テーマが弱いこと、
冒頭15分に伏線を詰め込みすぎていることが、欠点である)
2016年09月12日
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