小説と映画の違いについてこれまでも沢山考えてきたので、
シリーズと銘打ってみた。
最大の違いは地の文の存在だと思う。
地の文の存在意義をずっと考えていたのだが、
それは解説し続けることではないかと思い至った。
たとえば「シグルイ」(山口貴由)という漫画を読破したのだが、
小説原作ということも相まって、
もともとの山口氏の作風も相まって、
「ナレーション(=地の文)」の多用がひとつの特徴になっている。
山口氏は「覚悟のススメ」を読んだ人もいるかも知れない。
バキ以上に、ナレーションの解説が入るッ!
その解説は、小説における地の文と同じだろう。
地の文は、
そこで何が起こっているかという物理的描写
(映画や漫画における絵による表現)
だけでなく、
「本当にはそこでこういうことが起こっていたのである」と、
解説を加える。
たとえば、
AとBの侍の真剣勝負を描いておいて、
「Aが二人に見えたかと思われた…しかしそれは、
Aが投げた刀であったのだ…!
城主から譲り受けた刀を放るという、武士の魂を手放す行為は、
侍には思いもつかぬこと…しかし、
これが無明逆流れを破る秘剣だったのである!」
みたいなナレーションを被せるのだ。
(うろ覚えで再現しています)
その間の描写(絵)は、
分裂したかに見えるA、かわすB、
投げた刀、迫るA、それを見守る城主や皆のリアクション、
などである。
刀を投げて分身のように見せることは、絵でも表現できる。
しかし「城主から拝領した剣を投げるとは武士にもとる行為」
というのは、解説がないと分からないことだ。
「だからこそ奇手として効果があること」も。
これは映画には不可能な表現である。
まさか戦いの最中にジェロニモが解説するわけにもいくまい。
急にナレーターが喋り出すのも興をそぐ。
精々、
事前にAが味方に「こういう作戦でいく」と自分のやることを解説しておくか、
終わったあとに「まさか城主の刀を投げるとは…」とあと解説させるしかない。
または、
事前に「城主の刀をうっかり地面に落として打ち首になる」などを描いておいて、
「城主の刀は命より重い」と描いておくのなら、
奇手であることは暗示出来るだろう。
いずれにせよ、物凄い迫力の、一瞬の真剣勝負の最中、
時間を止めるように解説を入れることは、
実は地の文にしか出来ないのである。
逆に言うと、地の文は「時間を止める」のである。
映画では、ナレーションの多用は厳禁である。
芝居の流れを止めるからである。
冒頭と結部に置くのが自然で、
それは作中の時間が動いていないときだからだ。
つまり芝居とは、人物の台詞や動作で進める、
リアルタイムで進むなにかのことなのだ。
それをナレーションで止めてはいけないのである。
スポーツ中継でも、
プレイの合間にスローモーションとして解説が入る。
擬似的に時間を止めているわけだ。
また、地の文は現在以外の解説も可能である。
たとえば同作には、
「この夜をもって、虎眼流の評判は地に落ちるのだ」
と、戦いの前に地の文で予言をしたりする。
台詞で言うならばその人の気持ちや分析に過ぎないが、
ナレーション(地の文)で言うならば、
それは客観的確定事項である。
この先起こることは凄惨な事だ、という予告になっているわけだ。
僕は、
ナレーションは基本的に映画の中で使うべきではないと考える。
よほどの事がない限り、
芝居で表現した方が感情移入が進むからである。
ナレーションは客観的であるぶん、
感情移入から距離をおいてしまい、没入を引き剥がす可能性がある。
しかし地の文ありきの小説が没入していないかというと、
そんなことはない。
つまり、
地の文での没入と、
芝居による感情移入の没入の質が異なるのである。
地の文は、解説こみの全てに没入すること、
芝居は、その人に没入すること、
という差があると考える。
だから、
小説は一人称であり、
映画は三人称なのではないだろうか?
没入の仕方が異なるのである。
地の文では、解説を延々続けることが出来る。
これに慣れると、三人称芝居による説明が下手になると思うよ。
2016年09月13日
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