2016年09月13日

逆に、解説はできないのである(シリーズ:映画と小説の違い)

前記事のつづき。

つまり、映画なる三人称形では解説などできない。
これが「説明台詞は難しい」ということと、とても関係している。


時間を止めて解説することに関しては、すべてが出来ない前提でいたほうがいい。

もちろん、飛び道具を用いてすることは可能である。
突然画面がストップモーションになったり、スローになったうえで、
「解説しよう」と解説者が乱入したりすれば可能だ。
文字を入れることによる解説も、それに準じる。
「○月○日、それはすべて無駄になったーー」
などを入れても可能だ。

だけどこれらは多用するべきではない飛び道具で、
三人称形では、すべては台詞と人物の行動、カット割りだけで表現しなければならない。
(脚本上では、それは、柱、ト書き、台詞のどれかである)


パントマイムで表現するクイズではないから、
それは自然なやりとりの中で表現しなければならない。

どんなことが本当に起こっているかは、
誰かの登場人物がそれを疑問に思い、
その方向に焦点を持って行き(つまり観客の興味を誘導し)、
少しじらして謎への期待を高めた上で、
それを解説して満足させる必要があるわけだ。
(それを数行や1シーンでしかけてもいいし、数シーンかけてやってもよい)


あるいはそんな仕掛けさえせずに、
すべてを俯瞰すればわかるようにしておいてもよい。
(よく考えたら一連の彼女の行動は、俺が嫌いと意味していたのでは、
などのように)
posted by おおおかとしひこ at 19:47| Comment(4) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
背景や音楽で説明するという手法はどうでしょうか?
古い例えですみませんが、押井守監督の攻殻機動隊では生命の樹をズダダダッと撃つシーンを入れて
「これは進化なのだ、新たなる種の誕生なのだ」
と解りやすく説明していました。(これに限らず押井守作品はたやすく言語化可能なモチーフがてんこもりですが)
また北野武作品のキッズリターンでは久石譲による、あの
「タ・タタタタ・タタンタン・タタタン・タタタン……」
のテーマ音楽、最初盛り上がるけど尻すぼみなメロディーのループによって
「つまりこれは延々の空回りなのだ」
と解りやすく説明されていました。

素人ですみませんが、こういうのってのは脚本の段階ではオーダーできないものなのでしょうか?
Posted by にしん at 2016年09月15日 02:31
にしん様コメントありがとうございます。

それらの例は、直喩と暗喩のレベルであります。
つまりはそれで意図が読み取れるわけです。
絵や音から意図が読み取れないレベルのことを、
地の文では出来てしまうのです。

たとえばキッズリターンのラストに、
小説の地の文ならば、
「彼らは延々と円を描いた。
そうして大人になっても円を描き、ついにその円から出なかった」と書くことも出来るし、
(バッドエンドと仮定)
「1963年のジョージフォアマンの試合は、まさしくこうであった。彼の戦略はのらりくらりとかわしながら、
最終ラウンドまで生き延びることにあったのである。
それは当時のアメリカの生き方とまさに重なっていた。
グラウンドにいるこの二人は、そのことを知らないだろう。
しかし結末を誰もが知っているように、
人は自然とそうなるのである」
(ジョージフォアマンもアメリカの状況も適当です)
なんて書くことも出来ます。

地の文は、その場にないことを持ち込めますが、
映像表現では、そこにあるものだけで表現します。
(そこにないものを持ち込むのは台詞のみ。
だから下手な説明はさめるのです)

ちなみに、音楽を「ループを高めて尻すぼみにし、
彼らの人生と重ねたい」と発注することは可能です。
しかし極端に言えば、どんな音楽が来ても、
彼らの空回りが表現できているように、
脚本(ストーリー)は出来上がっているべきです。
出来てないのに音楽に頼るのは、へぼの脚本です。
(監督は、ストーリーで表現できないから、
音楽で表現することもあります。
しかし音楽はそもそも言語化できないので、
言語化する結果は得られません。
僕はあのテーマ曲に空回りは感じませんでした。
淡々と走り続ける意志のほうが強いです)
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月16日 10:24
お忙しいなか返答ありがとうございました。

直喩と暗喩……

まさにそこです。そこに愚痴りたくてコメントしたんです。ええ、してしまったんですよ。もう!

小説はどうしてもクッサい直喩的表現になってしまいがちで……
ユーモアや立て板に水なリズミカルな文体にくるむような一工夫をよっぽどしないと説教や、オラッ感動しろっ!になりがちで……(司馬さんや百田さんみたいな開き直ってる方もいますが、個人的には反面教師にしています)なのに映画はあんなにスマートに暗喩ができる!悔しい!
(ズートピアでの仲直りシーンの影の中から光の中への暗喩すら文にするとクッサいったらありゃしない)


映画なら背景にゴヤの不吉な絵を置いたり音楽にラヴェルのボレロのループ表現を使ったりとかハイコンテクストな表現を粋にやれるのに……小説でやったらクドい説明になってお説教か知識自慢になるんだよチクショー!
映画ってズルい!暗喩をスマートにやれてズルい!

……という愚痴でコメントしてしまった次第でございます。
コメント欄汚してしまいすいませんでした。
Posted by にしん at 2016年09月17日 00:54
にしん様コメントありがとうございます。

にしんさんは小説畑の人でしたか。
逆に映画サイドから見ると、
スマートな暗喩を作るために、どれだけ苦労してることか。
小説はズルいよなあ、地の文で解説できて、
となるわけですわ。

ちなみにズートピアの橋の下→光の当たる所に出る、
は、ふつう脚本に書かない部分です。
脚本には仲直りの台詞劇が書いてあり、
ニンジンのペンの小道具をうまく使うようなもので、
撮影時に監督が小粋な暗示を足したと思われます。
演出の範囲ですね。
キツネが最初いる所が不自然なんですもの。

多分小説でも上手く書けますよ。
「二人は仲直りした。気づいたら彼女は、光の当たる場所に踏み出していた」
と、シーンの最後に持ってくればいいんじゃないですかね。

いずれにせよ、少ない道具だてで暗喩をやりくりする映画か、
饒舌ゆえに危うい小説か、みたいなことが言えそうです。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年09月17日 01:56
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