2016年09月14日

究極の一人称映画(レヴェナント評)

「バードマン」を見たときに、
ワンカットのカメラワークでは、
ふたつのものの対立と昇華という、
映画では本質的な「切り返し」が使えないのだ、
ということを議論した。

レヴェナントはそれを逆用してきた。
一人称的冒険を、ワンカットで表現してくるとは知らずに見て、
驚愕した。


以下ネタバレ。

特筆すべきは、
インディアン襲撃のワンカット(燃えた木が倒れるまで)、
熊に襲われるワンカット、
川から斜面を登って(斜面を登るのはステディカムでは不可能)猪の群れに出会うワンカット、
馬を盗んだインディアンに朝襲撃され、崖からおちるまでのワンカット、
ラストの一対一のワンカット、
などである。

前作バードマンでは芝居のテンションが繋がらないところがいくつかあったが、
全編ワンカットではないことにしたので、
テンションが繋がるように、巧みに複数カットをワンカットに見せるようにデジタル合成を使ってきた。
特にラストバトルのテクニックはなかなかで、
数カットをワンカットに見せるように、
うまく繋いだなあなんて思いながら見ていた。


ワンカットステディカムが技法として使えるのは、
リアルタイム性の共有である。
それが進行していることを皆で共有出来るのである。
(クローバーフィールドでは、それは報道カメラという体で、
ワンカット撮影であった)
マジックの番組で、「編集されていないことをご確認ください」
なんて断りが入るように、
「それは、今進んでいるリアルタイム時間軸であり、
のちのちのトリックを使っていない、
つまり起きたことの正確な記録」
を意味する。

さあ、ところが、
正確な記録は、知性による整理がなされないという欠点がある。
「30分煮込んだものがこちらです」が使えず、
「30分煮込む」をやらなければならない。
あとあと考えて俯瞰し、エッセンスだけを抜き取り、
本質的なものに圧縮するという、
人間の知性が表現できないという欠点がある。

ワンカット撮影は、つまりは、
解説のないスポーツ中継である。
そこで起こっているリアルタイムの面白さはあるけれど、
「本当にそこで何が起こったのか」は、凝縮されないのだ。


まあ、過酷なサバイバルであるから、
それを一人称的ワンカット撮影、
というのは、ある意味ワンカット撮影技法の、
新しいモチーフの発見でもあった。

残念ながら、本作はそれだけだなあ。


勿論、人間の愚かさ(汚さ)についてはよく描けていて、
悪役フィッツジェラルドは本当に嫌なやつだ。

しかし、意図的に、この映画は切り返しを使っていないから、
「同じ時間軸を複数の視点から同時に見る」ことが出来ず、
とても一方的な見方をカメラがすることになる。
(その不自由さが、現実は整理しがたく一方的である、
という題材にマッチしていたが)

逆に言えば、
映画とは、複数の人物の都合や視点から、
同時平行で事態を観察する、という俯瞰的な視点が常にある、
ということになる。観客の視点だ。

この映画はそれを捨てることで、
一人称を擬似的に達成したのである。


この手法から言えることは、
三人称の強力さであり、
これを使いこなすことの、困難さである。
作者はすぐに一人称に戻ってしまう。
それは、人は神の視点を持っていないからである。
神の視点を持つことが、作家的になる、ということかも知れないね。


さて、
お話は単純すぎて、批評に値するものではない。
一人称による冒険の記録なので、
「それが一体なんであったか」という意味の凝縮も発生しない。
いやあひどい目にあってねえ、
というオジサンの体験談のひとつにすぎない。

これは、この手法を使った全ての映画に言えることだ。
「ロープ」「ブラックホークダウン」
「クローバーフィールド」「世界侵略:ロサンゼルス決戦」
「バードマン」。
最近では「ジョニーマッドドッグ」も視点としては同じだね。
考え方としては「野火(塚本版)」もそうだった。

これらに共通するのは、
どきどきする瞬間をドキュメントすることである。
つまり、作り込んだドラマが、飽きられているということ、
それへのアンチテーゼとして存在する、ということ。
シンゴジラもその流れのなかにいる。


つまり、オーソドックスな、
シーンを設定して、切り返して、
複数の登場人物の動機と行動をきちんと描き、
感情移入し、
対立から昇華に至り、
その体験を凝縮したときになんらかの意味を持つ、
基本的な映画的物語が、
絶滅危惧種なのではないか、
という不安である。


やらないんじゃなくて、実力が足らず出来ない。
それだけのような気がするんだけどなあ。

ワンカット撮影技法は、知性がない。
人類は、知性を人工知能に任せて、
主観的幸不幸にしか興味がなくなっている。
そう揶揄されてもいいんじゃね?

逆に言えば、
都会のぬくぬくした安全なところで、
一生体験することのない過酷なサバイバルを、
出来るだけ砂かぶりで見たいという欲を実現したわけで、
それはそれで、
アメリカのデブ観客は引きこもってるんだなあ、
とも思えるわけだ。


一人称的な表現が増えている背景には、
パソコンやスマホを使うなどして、
みんな孤独な時間が多いんじゃないかな、
ということがあると思う。
孤独に共感できる、というか。



(ちなみに、revenantは、帰ってきた者、とくに亡霊を指すらしい。
主人公自身と、クライマックスの馬に乗った死者の、
ダブルミーニングになってるわけだ。
それを蘇りし者とは、ぬるい邦題だと思う。
俺なら「ワイオミングの幽鬼」とでもつける。
ワイオミングは適当で、本当はあの森の名がいいと思うが)
posted by おおおかとしひこ at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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