2016年09月15日

「君の名は。」はなぜ面白いのか?

たった一点に収斂するからである。


それは、「会いたいのに、会えないという感情」である。
これで震えれば西野カナだが、
この作品の特徴は、
男も女も、等しくそう思うことに尽きるのだ。


ネットの発達した現代、
実は「リアルで会うこと」は結構な価値を見いだしはじめてきた。
音楽はパッケージよりもライブで儲ける、
というビジネスモデルに変わりつつある。
デジタルコピーの蔓延の中で、
オリジナルに触れることの貴重さが、際立ちはじめているわけだ。

人は人と違うから、
近代は産業革命以後、「質を揃えて大量生産する」
ということをやってきた。
それがある種デジタルコピーで簡単になってしまったため、
人は人と違うから、いいのだ、
という流れに変わりつつある。

あとは、そういう違ういいものをどう発掘して広めるか、
というやり方がうまくいくかどうかだね。
(大量生産して大量に儲ける、パワープレイマスビジネスのほうが依然強い)


で、こういう時代の空気に、
「会いたいけど会えない」ファンタジーの気分が、
スポリとはまったんだと思う。

仕事が忙しくて会えないとか、実は浮気だったとか、
そういうリアルにまみれたよくある奴はみんな飽きてて、
新しい「会いたいけど会えない」のパターンを作ったから、
これはおもしろい、となったと思う。



以下ネタバレ。



勿論、それは「夢の中で男女が入れ替わる」という第一のアイデアと、
「時間がずれていて、一方は三年前に死んでいた」という第二のアイデアの会わせ技、
そして第二のアイデアから、
「どうしても助けにいかなければならない」という、
力強い行動の動機が生まれる、
という構造的な面白さが保証しているわけだ。

きっとこの構造ならば、
そこそこ才能があれば、どんな奴が書いても面白くなると思う。
主人公とヒロインの基本設定が違っても、
無理や矛盾さえなければ、面白くなると思う。
たとえば彗星落下という大事故が、
列車転覆でも、原発事故でも、311でも、
なにかドラマティックなものであれば成立したと思う。
(アニメならではの、彗星の美しさは実写じゃ無理だね)
瀧くんはイタリアンじゃなくてカフェでもインテリア屋でも、
居酒屋やコンビニでもいいし、
三葉は巫女じゃなくて沖縄の子でもいい。
(飛騨にしたのは、東京日帰りのリアリティーの為だろう。
日帰り、を条件にしなければ、
北海道だってアメリカだって南極だって可能だ)
また、東京と田舎を逆転しても成立すると思う。
東京の女の子を主人公に、
311の岩手の男の子を恋の相手にしても、
この切なさや動機の力強さは変わらないだろう。
(あとはディテールが、どうしてもそれじゃなきゃならない、
というだけの執着がなければつまらないだろうが)


会いに行く。
デジタルにまみれた現代では、
それが一番ドラマティックなのかも知れない。


そういえばスト2の「俺より強いやつに会いに行く。」は、
今でもゲームのベストコピーかも知れない。
スト5はゲーセンに出なくて残念だし、ゲーセンが廃れていくのは残念だ。

僕が映画館に行くのは、観客や館そのものに会いに行くことも、
含むと思うんだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック