たった一点に収斂するからである。
それは、「会いたいのに、会えないという感情」である。
これで震えれば西野カナだが、
この作品の特徴は、
男も女も、等しくそう思うことに尽きるのだ。
ネットの発達した現代、
実は「リアルで会うこと」は結構な価値を見いだしはじめてきた。
音楽はパッケージよりもライブで儲ける、
というビジネスモデルに変わりつつある。
デジタルコピーの蔓延の中で、
オリジナルに触れることの貴重さが、際立ちはじめているわけだ。
人は人と違うから、
近代は産業革命以後、「質を揃えて大量生産する」
ということをやってきた。
それがある種デジタルコピーで簡単になってしまったため、
人は人と違うから、いいのだ、
という流れに変わりつつある。
あとは、そういう違ういいものをどう発掘して広めるか、
というやり方がうまくいくかどうかだね。
(大量生産して大量に儲ける、パワープレイマスビジネスのほうが依然強い)
で、こういう時代の空気に、
「会いたいけど会えない」ファンタジーの気分が、
スポリとはまったんだと思う。
仕事が忙しくて会えないとか、実は浮気だったとか、
そういうリアルにまみれたよくある奴はみんな飽きてて、
新しい「会いたいけど会えない」のパターンを作ったから、
これはおもしろい、となったと思う。
以下ネタバレ。
勿論、それは「夢の中で男女が入れ替わる」という第一のアイデアと、
「時間がずれていて、一方は三年前に死んでいた」という第二のアイデアの会わせ技、
そして第二のアイデアから、
「どうしても助けにいかなければならない」という、
力強い行動の動機が生まれる、
という構造的な面白さが保証しているわけだ。
きっとこの構造ならば、
そこそこ才能があれば、どんな奴が書いても面白くなると思う。
主人公とヒロインの基本設定が違っても、
無理や矛盾さえなければ、面白くなると思う。
たとえば彗星落下という大事故が、
列車転覆でも、原発事故でも、311でも、
なにかドラマティックなものであれば成立したと思う。
(アニメならではの、彗星の美しさは実写じゃ無理だね)
瀧くんはイタリアンじゃなくてカフェでもインテリア屋でも、
居酒屋やコンビニでもいいし、
三葉は巫女じゃなくて沖縄の子でもいい。
(飛騨にしたのは、東京日帰りのリアリティーの為だろう。
日帰り、を条件にしなければ、
北海道だってアメリカだって南極だって可能だ)
また、東京と田舎を逆転しても成立すると思う。
東京の女の子を主人公に、
311の岩手の男の子を恋の相手にしても、
この切なさや動機の力強さは変わらないだろう。
(あとはディテールが、どうしてもそれじゃなきゃならない、
というだけの執着がなければつまらないだろうが)
会いに行く。
デジタルにまみれた現代では、
それが一番ドラマティックなのかも知れない。
そういえばスト2の「俺より強いやつに会いに行く。」は、
今でもゲームのベストコピーかも知れない。
スト5はゲーセンに出なくて残念だし、ゲーセンが廃れていくのは残念だ。
僕が映画館に行くのは、観客や館そのものに会いに行くことも、
含むと思うんだ。
2016年09月15日
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