2016年09月18日

なぜ「エクゾスカル零」は失敗したのか

山口貴由「シグルイ」に続き、「エクゾスカル零」を読んだ。
前者の漫画史に残る素晴らしさに対して、
後者の府抜けたつまらなさはなんだ。
脚本論的に分析してみよう。


エクゾスカル零の、ガワは最高だ。
エクゾスカルのデザインは滅茶苦茶カッコイイし、
格闘シーンも魅力的である。
裸体のセクシーさは群を抜く。ホモも悪くないと思わせる説得力がある。

技もハッタリが効いてたまらん。
キャラクターも魅力的だし、技名もたまらん。
六花とか京馬好き。
設定もブッ飛んでいて、どんな物語が生まれるのか、
最初はとてもワクワクした。
最強の敵、動地もなかなかよい。

つまり、キャラだけは立ちまくりである。

正義と正義がぶつかる、仮面ライダー剣のようなストーリーラインも面白そうだ。


ところが。
最初のバトルから既につまらなかった。
電獅子とかカッコイイのに。
なぜか?

芝居とは何か、ストーリーとは何かを考えればわかる。
それは目的だ。

主人公覚悟は、目的がないまま闘うのである。


勿論、目的がないままさ迷い、悟りを開くという大筋だから、
目的のなさが前提にならざるを得ない。

しかし、たとえば「お前の知りたいことは、○○の街にある」
などと、小目的を与えればなんとかなった筈だ。
何故自分は目覚めさせられたのか?
という中目的、
自分の正義は何か?
という大目的ばかりを追いかけすぎ、
物語を駆動させる小目的がなかったのが、
いつまでたってもストーリーが進む感じがしなかった原因である。

ラスボス、動地が出てきてから話が滑り出したのは、
動地の目的がハッキリしていたので、
リアクションしやすかったからである。



シグルイと比較してみよう。
実のところ、シグルイの物語を牽引しているのは、
主人公藤木ではなく、ライバル伊良子である。
藤木が主人公顔なだけで、
シグルイは伊良子が主人公だと言ってもよい。
目的は明快だ。復讐である。

この物語は、最初に、ラストに藤木伊良子戦があることを示してから、
回想形式で、いかにそこに至ったかを示している。
つまり読者は、
最終的には二人の動機は互いを殺しあうことになる、
とわかった上で楽しむ構成になっている。
だから、小目的がそれでなかったとしても、
いかにその復讐へと動機が流れていくのかを、
楽しみにしながら見てられるのである。

つまりこの差である。

伊良子は、
道場破り→虎眼流乗っ取り→失敗→盲目からの復活→天下に召し抱えられること、
と動機が藤木への復讐へと収斂されてゆく。
それが明快であるから、
私たちは感情移入しやすい。
こいつが何目的でそれをするかを、楽しみに見てられる。

そしてその予想の斜め上に行くのが、
ブッ飛んだシグルイの面白さである。
目的が明快でありながら、手段というガワを、
ブッ飛ばせるのである。

一方、
エクゾスカルの覚悟は、
目的がないまま、ブッ飛んだバトルをする。
自衛手段としての戦闘ではなく、
殺しに行く戦闘である。
お題目はないことはない。
正義の行使であるとか、貴様の正義とは相容れないとか。
しかしそこに感情移入しないままバトルが進行するので、
むしろ敵方に感情移入してしまう。
敵方のほうが目的が明快だからだ。

つまり、エクゾスカルとは、
目的が明快な敵を、目的が不明な主人公が、
ただバトルして倒す話になっているのである。
この構造が、詰まらない原因だ。

シグルイでは、伊良子が目的が分かりすぎるのに対して、
主人公顔の藤木の目的が、虎眼流再興以外、
わざと分かりにくいようにしてある。
伊良子を立ちやすくするためであろうか。
(藤木のキャラを立たせられなかった、という可能性が微レ存)
藤木がキャラが立ち始めるのは、片腕を失ってからである。
藤木のキャラが立つと、
前後して伊良子の魅力が減じて行く。
だから、ラストの決戦は、
予想より盛り上がらずに終わってしまう。
で、感情移入したはずの藤木が、
裏切りのように武士社会に殉ずる様を見て、
我々は三重のように失望し、
胸糞悪いバッドエンドを味わう仕組みになっている。


エクゾスカルは、
目的なき覚悟が、明確な目的を持つ敵を倒し続け、
救うべき人類の滅亡につきあう、
という、「今までの敵を倒す意味あったんかい!」
と突っ込みたくなる結論に達する。

目的は、意味である。
その人物の人生の意味である。
つまり、主人公の意味なんてなかった、
という空虚が、エクゾスカルの意味だ。

だから感情移入しづらいのである。
人生無意味だ、と思ってる人は感情移入出来るかもだが、
そのシニカルさに、徹底的に熱いガワが、合ってないよね。

ちなみに、7人のエクゾスカルには、
7つの大罪モチーフが入っているらしい。
そのモチーフは、目的と関係ない。
状態を意味する言葉だからだ。
唯一、煉獄編の霧だけが、目的と行動が一致していて、
ストーリーとして成立していた。
六花や動地のように、作品内ヒーロー番組を作らなくても、
自然にオンでバックストーリーを作れたので、
感情移入しやすかったと思う。
しかしその頃には手遅れで、
ストーリーの大半が終わっていたという。


エクゾスカルは、シグルイに魂を持ってかれた作者の、
リハビリの物語だったのではないか。
次作は衛府のコントを描いてるらしい。
シグルイは、作者をも狂わせたんだねえ。
御前試合の二試合目以降は、あんまり面白くないそうなので、
シグルイ2はなさそうだ。


「到達者にならない人類が発見される」
というネタさえあれば、覚悟には動機が発生する。
旅のはて、その人類に出会ったところから、
エクゾスカル零2は始めることが出来ると思うよ。


何故そんなに必死なのか。
何故そんな目的のために、そんなに必死なのか。
それは、それがその人物の、人生の意味だからだ。
その目的を達しなければ、
その人物が生きる意味がないからである。
それが壮絶であればあるほど、
それが必死であればあるほど、
それが切実であればあるほど、
物語のテンションはあがる。

シグルイは、僕の知る限りマックスのひとつである。
エクゾスカル零は、ガワのテンションだけが高く、
中身が空虚であった、世にも珍しい珍作であった。
posted by おおおかとしひこ at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック