自作のキャッチコピーを時々書いてみることを、
僕は推奨している。
それはつまり、自作から距離を置く練習のためだ。
自分の視点からアピールポイントを抽出し、
並べ立てることは意味がないことは、
これまでの議論から明らかだ。
特徴的によい部分ABC…を羅列したとしても、
それは、そのABC…が好きな人へのタグにしかならない。
それが嫌いな人、興味のない人に、ABC…を与えても、
無視されるだけである。
暑い日のかき氷にたとえれば、
寒い日に、あなたはかき氷を売らねばならないのだ。
同時に、暑い日にもかき氷を売らねばならないのだ。
それはつまり、かき氷とは関係のない、何かを売らなければならない。
それはかき氷の本質のようなものになるはずだ。
ものを味わうということはどういうことか。
舌の上を通りすぎる一瞬の記憶こそが味だ。
かき氷は、そのなかで最も薄命なものである。
「舌の上で一瞬で溶けてしまう、美人の記憶。」
とでもキャッチを書けば、
暑い日のかき氷以外の価値をつくったことになるのではないかな。
勿論別解は沢山あるだろうから、
練習がてら考えてみたまえ。
かき氷の例のように、
あなたは自作の本質に迫れるだろうか?
あなたが嫌いな人にも、
あなたの仲間にも向けて、
あなたは自作の本質を、何も知らない人に、
特徴を並べるのではない方法で伝えられるだろうか。
そこまで遠ざかることが出来たら、
客観的な視点で見れているということだと思うよ。
勿論、商売上のキャッチコピーは、
これらの本質的コピーとは異なる可能性もおおいにある。
「泣ける絵本No.1」なんて駄コピーで来る観客のほうが多い、
と宣伝部が判断すればそうなる。
(実際、この愚かなる宣伝部が採用した真の駄コピーの蛮行は、
ここで書くにはあまりにも汚物なので引用しない)
何が商売になり何が商売にならないかは、
その商売人の勘でしかわからないものだ。
僕はその商売人の現場勘よりもさらなる原則の話をしている。
件の宣伝部は、現在縮小されてドワンゴに買われたんだっけ。
あなたは、誰とコミュニケーションしようとしているのか?
僕は、なるべく全部の人とコミュニケーションが成立するといいと思っている。
そうでなければマスの意味がない。
(今マスというものが崩落の危機にあるが、
それとこれとは別の問題なのでおいておく)
2016年09月18日
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