2016年09月19日

動機を強くする

そもそも登場人物には目的がある。
もし目的がない人物がいるなら、
それは登場人物ではなく、端役である。

以下、目的を持つ人物を登場人物とする。
登場人物は多くなくていい。
数人でいい。
何故なら、映画とは、その数人の目的の争いを描くからである。
(コンフリクト)


何故争わなければならないかというと、
目的が異なるからである。
あるいは同じ目的を持つ競争を描いてもいい。
これらを一般に、敵、ライバルと呼ぶ。

映画的物語とは、
とどのつまり、
「全員の目的が同時に達成できないため、
ただ一人の目的がそれらをしのいで達成するさま」
のことである。

つまり、
「全員の目的が同時に達成できない」状況をいかにつくるか
(ベタな例では、両陣営の戦い、潰し合い、ライバルとの競争、
ある人の考えを変えて自分の主張に賛成させること、
これはラブストーリーを含む、など)、
「それらのうち、勝利者が勝利する合理的な理由と、
その軌跡の起伏や感情の揺れの面白さ」を、
いかにつくるか、
ということが、物語のコンフリクトの骨格を作るということである。


さて、全ての(メインの)登場人物は、目的を持つ。
これらの矛盾が、人々を行動させるわけだ。
妨害したり、説得したり、出し抜いたり、隠したり、暴いたり、
相手に誤解させるようにしたり、誤解を解いたりするのは、
相手の目的よりも、自らの目的を実現させる為である。

面白くない物語の最もよくある文句は、
「何のためにこれをやってるか分からない」だ。
目的が明瞭で、感情移入し、かつ今やっていることと目的の関係が分かることは、
詰まらない物語の真逆である。

さて、どうしてそんなにその目的を実現したいんだろう?
それが動機だ。

何故敵を倒したいのか?
何故ライバルより上回って先に目標に達したいのか?
何故その人の考えを変えたいのか?

その動機が、強烈であればあるほど、
その人は決して諦めず、どうにかしてその目的を実現する執念を燃やすだろう。
動機の強烈さは、試練を越えるのだ。

漫画「シグルイ」は、
異常なまでの執念を描く。
動機こそ強烈である。
その強烈さに、人は人の業を見るのである。
大抵は不幸なものが幸福を願う、そこから始まっている。
しかし試練の方が強烈で、
動機はどんどん強く、執念の炎のようになってゆく仕組みになっている。
その炎も赤い炎ではなく、青白い不気味な炎のような感じが、
「シグルイ」の魅力ではあるが。


もしあなたの物語が起伏もなく詰まらないのだとしたら、
次のいずれかの手を加えてみよう。

動機を強くする。
試練を強化し、それを乗り越える執念を強くする。
相手も同様に強くし、どちらが勝つか予想できないようにする。
どちらも勝利させてあげたいと思うほど、その動機への感情移入を強くする。
さらに一人、強烈な敵やライバルを追加し、三つ巴や四つ巴にしてしまう。
逆に一人減らし、巴をシンプル化し、焦点を絞って行く。

あるいは、
同時に目的を達成できない状況を面白くする。
一人の勝利者が勝利する軌跡を面白くする。


強烈な動機。
それこそが人を動かすエネルギーだ。

だから、平凡な高校生になんか、映画の主人公は務まらない。
凡人の動機を越えた、異常な執念を凌駕しなければならないからだ。
「思いの強い方が勝つ」というならば、
平凡な動機が勝つわけがない。

まず、世間一般では非常識なまでの、
狂気ともいえる、人の動機を創作しよう。
こないだ捕まった、側溝の下に潜り込んでスカートの中を見たい男は、
その動機の強烈さでは群を抜く。

主人公は自分を投影しがちだから、
そこまで異常化出来ないのなら、
敵やライバル、第三者や第四者をそうすることだ。
それに打ち勝つだけの動機を、主人公に増幅して与えていけばいい。


またまた「シグルイ」を例に出すけど、
伊良子を軸に、虎眼先生と牛股が素晴らしい異常さだ。
いくと藤木あたりが同列でその回りに配置されている。

これだけ異常に強烈な動機の人間がいれば、
自動的に物語は熱を帯びていくものである。
熱を帯びるのは観客だけではない。
作者自身もである。
異常で強烈な動機は、作者の熱も帯びさせる。
そのうち作者は、その人物に書かされている気になると思う。
そうなれば一人前だ。
posted by おおおかとしひこ at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック