2016年09月22日

何のためにプロットがあるのか

その話が、
見るべき価値があるかどうか、
見極めるためだ。


プロットの役目は色々あるけれど、
実のところ、その話を知らない人が、
労力を払ってその話を見るべきかどうか、
その判断に使われるのが、
一番大きな役割のような気がする。

それは、この脚本を書くべきかどうか、
とプロデューサーと話すためにあるし、
自分がその話を労力をかけて
(おそらく一ヶ月から数ヶ月籠ることになる)
書くべきかどうか判断するためにもある。

その労力を投下するべきかどうかは、
プロットを見ればわかる。

それは、どのような全貌であるか?
それは、どのようなオリジナルの面白さがあるか?
それは、どのようなオリジナルの展開があるか?
それは、どのような感情をどうもたらすのか?
それは、最終的にどうなることで、
どのような価値を示すのか?
結局どうなってどういう意味がこの話にあったのか?
それを示すための前提、妥当な論理展開、結論。

つまり、その話は世界にどのような影響を与えるか?

それを判断するためにある。


それらが明快じゃないプロットは、
話として面白くない話である。

勿論次の段階で、魅力的な台詞や楽しいギャグや、
唯一無二のキャラクターや、見たこともない絵が出てくるのかも知れないけれど、
そんなのは話そのものとは、なんの関係もない。

話の価値を決めるのは、プロットだ。
そのプロットで既に価値のある話かどうか、
分かるプロットを書かねばならない。



ちなみに、プロットは結末まで書くから意味がある。
その話の価値を判断できないからだ。
大体こういう話を書こうと思うんだけど、
と思うときは、まず結末を決めるべきだ。
その話がどのような価値を世に示すかは、結末で決まるからだ。

観客に向けてのネタバレを避けて、
ストーリーの触りを書くのはプロットではない。
プロットの一部でしかない。
ストーリー紹介記事のレベルである。

(小説コンテストには、梗概といって、
1000から1500字程度でプロットを要求されることがある。
梗概は結末までネタバレする。
それは、わざわざこの小説を読むべきかどうかという、
コンテストの読み手の判断材料になる。
良さそうな小説から読み始め、詰まらなそうな話はあとまわしにされる。
話の良し悪しは、梗概の筆力に概ね比例するからである)


プロットは、観客向けのものではない。
内輪むけのものである。
でも的確なプロットがDVDとかについてたら、
どんなに糞映画引かなくて済むかもね。

あなたは、自分向けにしかプロットを書いてない?
正確には、自分以外のスタッフに向けて書く。
あるいは、客観的視座の自分に向けて書くものなのだ。

プロットを執筆の工程表や旅のしおりみたいに思ってはダメだ。
客観的にその話を俯瞰するためにプロットはあるのだ。


だからペラ一枚程度の文章にまとめるのである。
posted by おおおかとしひこ at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック