初心者は、主観で文を書く。
それは客観的で三人称である映画脚本の形式から、
最も遠いものである。
たとえば、
初心者は、
「わたしは悲しい」ことを、
「主人公が悲しんでいる」ということで表現出来たと思いがちである。
「わたしは愛されたい」ことを、
「主人公が愛されている」という場面で表現出来たと思いがちである。
(メアリースー)
主観の世界ならば、
わたしは悲しく、わたしは愛されている。
しかし、
客観の世界では、
その人は憂鬱な表情をしているだけで、
その人は誰かによしよしされるだけである。
その人が何故悲しむか理由が分からなければ、
観客である私たちは一緒に悲しめないし、
その人が何故愛されているか理由が分からなければ、
観客である私たちは、その人が愛されているさまに暖かい気持ちになれない。
そう。
客観的には他人である「その人」には、
「その感情の理由が必要」なのだ。
主観のわたしのことならば、
わたしの感情なので理由や経緯なぞどうでもいい。
わたしが悲しくわたしが愛されたいのであるから。
しかし客観的にはそうではない。
わたしのことではなく、
別の他人のことを扱うからである。
我々観客は、個人である自分の感情の方が大事であり、
別の他人の感情など気にしてはいないからである。
気にするのは、
何か面白いエピソードだ。
何か面白いエピソードがあり、
その結果その他人が悲しめば、
その人の感情は、観客である我々は理解できる。
さぞ悲しいだろうと。
何か面白いエピソードがあり、
その結果その他人が愛されれば、
その人の感情は、観客である我々は理解できる。
愛されて良かったねと。
これが感情移入だ。
感情移入は「結果として」起こる。
何か面白いエピソードに引き付けられて、
その人の事情が把握できて、
その人の感情が、
「○○である」と説明しなくても分かったときだ。
感情移入は共感ではない。
感情移入は、事情や理由の理解があったあとに起こる、
さぞこの人は○○な感情だろうと、
「推定する共感作用」だと定義してもいいかもだ。
だから、
客観には、
説明が不可欠で、
説明の必要のない感情が不可欠だ。
これを理解しない初心者は、
わたしの感情をそのまま書けば、
観客も同じ感情になってくれるだろうと誤解している。
それが間違っているのは、
現実で理解しているはずだ。
あなたがある感情になっても、
あなたの親しい人ですら、同じ感情にはなってくれない。
あなたが悲しい顔をしても、あなたの親しい人は悲しくなってくれない。
(どうしたの?と事情を聞いてくれるかも知れないが。
そして彼らが悲しい感情になり悲しい顔をしてくれるのは、
あなたが悲しい顔に至った経緯を理解したときだけである)
現実でそうなのに、
脚本や小説でそうでないわけがない。
あなたの感情をそのまま書いた瞬間、
観客の感情が同調するわけがない。
(例外:音楽では同調することが可能)
他人の感情がその感情になるのは、
それに至るまでの経緯や事情を理解して、
その感情を察したときだけだ。
つまりあなたは、
客観的な物語を書くためには、
察してもらえるだけの経緯や事情を、
小さくエピソードにまとめなければならないのだ。
そしてそのエピソードは、
その辺にある詰まらないものではなく、
見たこともない興味深い面白いものでなければ、
見向きもされないのである。
三人称って難しいでしょ?
2016年09月23日
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