2016年09月23日

主観と客観の混同

初心者は、主観で文を書く。

それは客観的で三人称である映画脚本の形式から、
最も遠いものである。


たとえば、
初心者は、
「わたしは悲しい」ことを、
「主人公が悲しんでいる」ということで表現出来たと思いがちである。

「わたしは愛されたい」ことを、
「主人公が愛されている」という場面で表現出来たと思いがちである。
(メアリースー)


主観の世界ならば、
わたしは悲しく、わたしは愛されている。
しかし、
客観の世界では、
その人は憂鬱な表情をしているだけで、
その人は誰かによしよしされるだけである。

その人が何故悲しむか理由が分からなければ、
観客である私たちは一緒に悲しめないし、
その人が何故愛されているか理由が分からなければ、
観客である私たちは、その人が愛されているさまに暖かい気持ちになれない。

そう。
客観的には他人である「その人」には、
「その感情の理由が必要」なのだ。


主観のわたしのことならば、
わたしの感情なので理由や経緯なぞどうでもいい。
わたしが悲しくわたしが愛されたいのであるから。

しかし客観的にはそうではない。
わたしのことではなく、
別の他人のことを扱うからである。

我々観客は、個人である自分の感情の方が大事であり、
別の他人の感情など気にしてはいないからである。
気にするのは、
何か面白いエピソードだ。

何か面白いエピソードがあり、
その結果その他人が悲しめば、
その人の感情は、観客である我々は理解できる。
さぞ悲しいだろうと。

何か面白いエピソードがあり、
その結果その他人が愛されれば、
その人の感情は、観客である我々は理解できる。
愛されて良かったねと。

これが感情移入だ。

感情移入は「結果として」起こる。
何か面白いエピソードに引き付けられて、
その人の事情が把握できて、
その人の感情が、
「○○である」と説明しなくても分かったときだ。

感情移入は共感ではない。
感情移入は、事情や理由の理解があったあとに起こる、
さぞこの人は○○な感情だろうと、
「推定する共感作用」だと定義してもいいかもだ。

だから、
客観には、
説明が不可欠で、
説明の必要のない感情が不可欠だ。


これを理解しない初心者は、
わたしの感情をそのまま書けば、
観客も同じ感情になってくれるだろうと誤解している。
それが間違っているのは、
現実で理解しているはずだ。

あなたがある感情になっても、
あなたの親しい人ですら、同じ感情にはなってくれない。

あなたが悲しい顔をしても、あなたの親しい人は悲しくなってくれない。
(どうしたの?と事情を聞いてくれるかも知れないが。
そして彼らが悲しい感情になり悲しい顔をしてくれるのは、
あなたが悲しい顔に至った経緯を理解したときだけである)

現実でそうなのに、
脚本や小説でそうでないわけがない。
あなたの感情をそのまま書いた瞬間、
観客の感情が同調するわけがない。
(例外:音楽では同調することが可能)

他人の感情がその感情になるのは、
それに至るまでの経緯や事情を理解して、
その感情を察したときだけだ。

つまりあなたは、
客観的な物語を書くためには、
察してもらえるだけの経緯や事情を、
小さくエピソードにまとめなければならないのだ。
そしてそのエピソードは、
その辺にある詰まらないものではなく、
見たこともない興味深い面白いものでなければ、
見向きもされないのである。


三人称って難しいでしょ?
posted by おおおかとしひこ at 02:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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