男のラブストーリーは付き合いが決定するまでの話、
女のラブストーリーは付き合って以後ずっと続く話、
だとよく言われる。
つまり、
男の書くラブストーリーは、
ボーイミーツガールからはじまり、
クライマックスは告白や初セックスで、
女の書くラブストーリーは、
二人は付き合うことになりました、がはじまりで、
そのあとに起こるトラブルをどう乗り越えるかを描く。
(クライマックスは存在しない。これは女の生理的快感曲線と一致する。
生理的快感曲線を考察するには、ホモのセックスとレズのセックスを比較すれば、
男女の生理的快感曲線の差を強調して理解できる)
これを共感という軸から眺めてみる。
共感とは、
異なる価値観の二人が、同じ気持ちになること、
とここでは定義しよう。
男のラブストーリーは、
異なる価値観の二人が、同じ気持ちになるまでを描く。
つまりは、コンフリクトを中心にし、
結末はその和解あるいは第三の結論に至ることである。
異者の共感、という筋立てだ。
ラブストーリーかどうかはおいといて、
男二人のバディ(喧嘩してラストにコンビを組む)、
戦争もの(対立するふたつの国や民族が同盟を結んで終わる)、
などもこのスタイルであるわけだ。
逆に女のラブストーリーは、
共感がキープし続けられるかがメインになる。
最初に共感を確認したら、
その共感がどこまで持つか、その共感を強く出来るかがストーリーになる。
つまりは、二人の信頼が危うくなったり、
回復したりする様を描く。
二人だと話が単純になるから、
三角関係を持ち込んだり、
複雑な人間関係を持ち込んで、キープすべき共感の種類を増やしていく。
だからその筋立ては、
喧嘩して仲直り(または決裂のバッドエンド)
が本質だ。
「君の名は。」は、変わった構造だ。
前半戦が男のラブストーリー、
後半戦が女のラブストーリーになっている。
二人が出会い同じ気持ちになるまでが男のラブストーリー、
ミッドポイント、かたわれどきで気持ちを確かめあったら、
あとはその共感が壊れないようにすることが、
ストーリーの目的とゴールになるわけだ。
通常のラブストーリーならば、
告白やセックスに至る手続きが煩雑なので、
そこに至るまでを面白くする(男のラブストーリー)、
そこは省略して以後を描く(女のラブストーリー)、
のどちらかの戦略をとるのだが、
「君の名は。」はSFなので、
手続きを大胆に改変できたわけだ。
ひとつの共感に至るさまを、入れ替わり生活によって体感させるわけである。
予測だけれど、
男の観客は、入れ替わり生活が物足りないと思うだろうし、
女の観客は、再会してからあとをもっと見たいと思うんじゃないだろうか。
ないものねだりだけど。
ちなみに「時をかける少女」(大林宣彦版)では、
クライマックスは告白(深町くんの正体告白含む)である。
男のラブストーリーだ。
しかしそこからがかなり長い。
実はそこから女のラブストーリーになっているのだ。
私たちは会えない二人の悲しさを共有し、
再び再会する予感でウキウキする。
これはつまり「君の名は。」の後半戦と同じ感情になっているわけだ。
時かけの感情構造を、君の名はは、ミッドポイントで前半後半に割る、
という構造に持ってきたわけだね。
だから何となく感情の流れが似ている感覚を受けるのである。
勿論、ジュブナイル地方超能力もの、というジャンルもちかしいのだけれど。
あなたの書く話は、
男のラブストーリーか、女のラブストーリーか。
あるいはどちらでもないのか。
あなたが男か女かは関係なく、
そういうスタイルがあると思っておくだけでいい。
男なのに女のラブストーリーを書くのが変だとか、
逆もおかしいとか、そういうことではない。
長編になればなるほど、自分は何を書いてるか分からなくなるので、
そういう乱暴な分類は、ドラスティックに客観的になるときに、
使える道具だったりするだけである。
異なるスタイルにシフトすると、変だという直感が働くものだ。
スタイルを跨ぐのはやめよう。
(事実、時かけはクライマックス以後が長く感じる)
そのスタイル内で、マックス面白くなるようにすればよい。
特にこのようなドラスティックな客観分析は、
プロットを一覧する時に考えておくべきことだ。
エピソードの順番を変えたり構成を調整したり出来るのは、
執筆前だけだからね。
勿論、ひとつのスタイルしか書いたことがないのなら、
逆のスタイルを勉強してみるとよい。
少年漫画と少女漫画の関心や構造が異なる理由を考えるのもいいことだ。
最終的に逆のスタイルで書くことはなくても、
異性のキャラクターを動かす無意識的な感覚に、使えるから。
2016年09月23日
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