最近の脳科学の発展により、
どうやら、
「脳は運動を記憶できない」という説があるらしい。
詳しくはもう少し調べたいのだが、
僕の物語の記憶のされ方に関する仮説、
「一枚絵は記憶に残るが、それまでの線の経緯は忘れてしまう。
つまりあとで思い出すときは、イコンとそこで覚えた感情である」
を裏付ける研究があるっぽい、という。
普段は僕は、
焦点やら目的やら、動機やら行動やら、
ストーリーラインやら変化やら、
動的なことについて主に議論している。
僕はそれがストーリーの本質だと思っているのだが、
それを記憶のなかから呼び出して、
こういう感じ、と示しにくいことにジレンマを感じている。
一方、人は絵の記憶は得意だから、
それゆえ映画の理解を、絵というガワだけで理解、
評論してしまう危険性についても、
普段散々批判している。
この、イコンという安きに落ち着き、
動的ストーリーラインに落ち着かないのは、
脳の記憶構造の問題ではないか、
と仮説を立ててきたのだが、
それがどうやら本当らしいのである。
(詳しくはソースを明らかにしてからにしたい。
まだネットのヨタ話なので。
海馬が、短期記憶から長期記憶に変換するときのことっぽい)
あと僕は、論理の短絡という現象もあるような気がしている。
ストーリーラインというのは、ある種の論理構造をもっている。
AゆえにBになり、それゆえにCになり…という構造だ。
これを形式的論理構造にすることは出来る。
A⇒B⇒C
である。
これは三段論法なので、
A⇒C
に短絡可能である。
短絡された論理を定理といい、
短絡しない全構造を証明というわけだ。
ストーリーラインは、三段論法どころではない。
A⇒B⇒C⇒D⇒…と延々と続くものだ。
焦点とターニングポイントを変えながらである。
仮に…⇒Zまで行って終わったとしよう。ラストシーンだ。
この形式的論理構造は、
A⇒Z
に短絡化(定理化)できる。
おそらく、これが我々が、経緯なる動的ストーリーラインを記憶できない原因ではないか?
つまり、
「Aで始まった物語は、Zで終わった」のように、
短絡化して記憶されるのではないか?
たとえば。
「青い鳥」。
「幸せの青い鳥を探しに出たが、結局家にあった」
「桃太郎」。
「桃から生まれた桃太郎が、最終的に鬼を退治した」
「風魔の小次郎」(ドラマ版)。
「忍者の小次郎が学園に来て、色々あって敵を倒した」
などなど。
ここでわざと書いてみたのだが、
「結局」「最終的に」「色々あって」
の部分が、
B⇒…⇒Yの、途中にあたる、短絡化して省略された部分に当たるわけだ。
勿論、よく知った話ならば、
その間を展開できる。詳しい定理ならば証明出来るのと同じだ。
ところが、
あやふやになればなるほど、
間の部分は、ちっとも思い出せなくなるのである。
これも、定理は前提条件と結果だけ使い、証明は興味ない、
みたいなことと一致している。
(たとえば中心極限定理は、証明よりもその結果、
すなわち統計の標準化や偏差値、あるいは視聴率などに使われている)
その短絡化こそが、
海馬の機能のような気がするのだが、
あとで調べてみることにする。
さて、
我々のすべきことは?
まず、絵だけでストーリーを判断しないこと。
全ての名作を、動的ストーリーラインで把握し直すこと。
そしてそのような素晴らしいストーリーラインを創作すること。
さらに。
それらは記憶されないという前提を持つこと。
忘却に対抗する手段は?
強い感情と結びついた絵を作ることだ。
絵は記憶できる。
それがイコンである。
イコンがあれば、A⇒Z以外にも、途中が記憶される可能性が高いわけだ。
勿論、最後に行くに従って、強く、面白くならないと、
「途中まで面白かったけど最後の方はいまいち」
という中折れの評価を下されるのだが。
逆にさ、小説とか音楽とか、絵のないものはどうやって記憶されるんだろう?
実は僕はある程度の写真記憶能力があるので、
映画や漫画は得意だけど、
小説や音楽は苦手だ。
「主なる感情とタイトルの組で記憶される」という仮説にとどめておくとする。
イコンをつくろう。
記憶されるような、オリジナリティのある、
強い感情と結びついた、ストーリーを示す絵をだ。
(何枚あればいいかは、長さによって異なると思う)
さらにその配列が、
だんだん強く、上手に変転していくとよい。
それが短絡を越える、名作の条件ではないかなあ。
ところで最近みた「レヴェナント」には、
ワンカット演出ゆえの、イコンがないという問題があったと思う。
「バードマン」も同じくだ。
どちらの作品も、ポスターが本質を表現しきれていない、
という違和感は、これと関係があるんじゃないかな。
2016年09月26日
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