間違った脚本は、共感と感情移入を間違えている。
たとえば。
「うおおおおお!」と叫ぶ男を描いたら、
そのすごい感情に観客もなってくれる。
「おいしい!」とにこやかな表情の女を描いたら、
その感情に観客もなってくれる。
ふられる様を描いて、雨に打たれたら、
その感情に観客もなってくれる。
そう思っているのだとしたら、
それは誤解だ。
「Aという感情を描いたら、Aという感情に観客がなってくれる」
という認識は、間違っている。
どんなに上手な芝居でも、どんなにいい感じのシャシンでも、
Aという感情を描いて、Aという感情に観客をすることは出来ない。
音楽や写真の世界では、逆にこのことが可能だ。
悲しい音楽を流せば悲しい気持ちになる。
憂鬱な写真を見れば憂鬱になる。
喜びの音楽を流して暗く沈む人はいないし、
憂鬱な写真を見てハッピーになる人はいない。
つまり、音楽や写真という芸術は、
感性による同調が行われる。
感度よくAという感情が表現されていると、
Aという感情に観客が次第に同調していくのである。
それは、音楽や写真全体で、Aという感情を表現しているときに限るようだけど。
本題。
ムービーでは、そうではない。
Aという感情が数秒から数分表現されていても、
そこに観客が同調することは滅多にない。
例外は、
その役者がすごく好きで同調してしまうとき(恋愛感情ゆえの共感)か、
自分が似たシチュエーションの経験があり、
説明がなくともオートマティックにその感情になってしまうとき
(経験ゆえの共感)だけだ。
つまり、Aという感情を見せて、観客がAという感情になるときは、
共感が前提である。
たとえばCMでは、「食べカット」と呼ばれるカットが必ずある。
「人が食べてるのを見るとうまそうと思う」という原理を使っている。
僕は長年これが疑問で、ずっとなくていいのではないかと思っている。
なぜなら、そのカットを見たとき、食欲は刺激されるが、
「その商品を食べたい欲」まで到達しないからである。
その目の前にその商品があればそれを手に取るかもしれないが、
そのCMを見るのは売りの現場ではないからである。
その食欲刺激共感は、その商品購買共感とは無関係に近いと思う。
で、CMの場合はいいわけできて、
なんども強制的に見させることにより、
深層意識に強制的に刷り込む効果があるわけだ。
90年代までの一本3000GRP以上、というヘビロテOA計画ならばそれもいえたが、
昨今のOA出稿量ではそれもどうかとおもうね。
話がそれた。
大量の刷り込みがない初見状態で、
そもそもの共感がない状態のときに、
Aという感情を見ても、Aという感情にはならないのである。
そう言われれば当たり前じゃん、と思うだろう?
でも、自分の原稿の中では、
号泣するヒロインの場面で、みんな号泣すると勘違いしてやいないか?
この記事を書いたのも、
先日書いた下手くそな脚本が、そうなっていたからだ。
「手紙の返事を受け取ったヒロインが泣く」という場面が、
最高に盛り上がる場面として説明されていたが、
これを書いた人は「すばらしい演技と、泣ける音楽で泣けるのである」と主張する。
だが僕は「なんで?」と問うのみである。
それまでのストーリーが泣けるものであるからこそ、
その場面に泣けるはずだ。
つまり、
それまでに感情移入ができているかが重要なのであって、
感情移入ができていなければ、Aの感情を見ても、はあ、と無感情になるだけである。
観客がAという感情になるのは、
それまでの流れがあって、
感情移入していて、
色々な顛末の末に、その登場人物がAという感情になるのと同時に、
観客もAという感情になったときだけである。
つまり、Aの同調は結果論でしかない。
観客がAという感情になっているのに、登場人物がBという感情になっているのを、
ちなみに「すべる」という。
では感情移入はどうなったらなるかについては、
過去に沢山議論しているので、ここでは繰り返さない。
それまでの経緯(事情)や興味が初手に重要であったことを思い出そう。
つまり、Aという感情に観客がなるのは、
点ではなく、線の結果論だ。
共感と感情移入は違う。
共感は点で、感情移入は線だ。
説明されれば当然なのに、
自作だけはその例外だと思うのは、
やはり自作を客観的に見れてない証拠ではないかなあ。
2016年09月26日
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