突然来るヒラメキは、
どうやって来るのか、何故来るのか、
人類はまだ解明していない。
しかし我々にとってのヒラメキは、生命線のひとつである。
どうやったらヒラメキが訪れるかは分からないから、
それは研究のしようがない。(経験則はいくつかあるが)
むしろ我々にとって問題なのは、
そのヒラメキがいいヒラメキなのか、悪いヒラメキなのかを、
見極められるかという問題だ。
ヒラメキを批評しようとしてはいけない。
これは経験則である。
ヒラメキを批評すると自由な発想が失われ、
恐怖心が柔軟性を失わせる。
ヒラメキは、出たらとにかくメモをしておく。
これに勝る対処法はない。
(紙のメモだろうがスマホのメモだろうがボイスメモだろうが、
なんでもよい)
昨日猛烈なヒラメキが来た。
帰宅中歩きながら、
ふと序文の神がおり、原稿用紙4枚分ぐらいのファーストシーンが、
まるまる口をついて出てきたのである。
まるでイタコだ。
長くなりそうだったので、文章そのものというよりも、
その時の気分を大事にしながら、
絵をなるべく想像しながら、
家に着くと同時にキーボードを叩いた。
普段なら手書きだが、今回はキーボードの気分だった。
人間というのは適当だけど、
ヒラメキを批評しない立場だからしょうがない。
で、寝て、その文章をさらに魅力的に整形し、
多少の調べものを追加して、
現在に至る。
私たちのヒラメキには、二種類ある。
革命的で人類史に刻むべき、世界を変える素晴らしいヒラメキと、
それに拘るあまり作品を悪くしていく、
客観性を欠く悪魔のヒラメキである。
どちらであるかは作者には分からないし、
他人にも分からない。
それは、素晴らしいヒラメキと悪魔のヒラメキは、
どちらも出来上がってみるまで分からないからである。
このヒラメキならば名作を作れる気がする!
というのはいつも思うことだけれど、
キャリアを重ねると、
そこまで熱を持つと悪魔のヒラメキかも知れないと、
用心するようになるものだ。
おそらく必要なのは、この冷静さだ。
ヒラメキに熱くなるのと同時に、
別のあなたは冷静でいなければならない。
それに拘るあまり、作品が悪くなるならすぐさま切り捨てられる冷静さである。
大体、熱心なときは周りが見えない。
しかし冷静なときは心が盛り上がらない。
しかし盛り上がる情熱こそが感情移入である。
これらを分かりながら、
冷静と情熱の間を行き来するしかないのだが。
悪魔のヒラメキに出会ったことがあるだろうか?
それに拘って、失敗したことがあるだろうか?
傍目には失敗なのに、どうしてそこへ突っ込むかなあ、
というのが人にはあるものだ。
全員が失敗だと思うのに、本人には成功を証明して見せる、
という心が強いことがある。
全員が失敗だと思うのに、
全員の目が節穴で、本当は成功だということもある。
どちらかは、実は出来上がってみるまで分からない。
自分のアイデアが可愛いから、批判を受け入れられないということもあるし、
批判が正しくないときもある。
どちらかは、実は出来上がってみるまで分からない。
いや、出来上がったはるかあとに評価が変わることすらある。
私たちに出来ることは、
のぼせ上がらず、かつ調子に乗りまくることである。
神のヒラメキだろうが、悪魔のヒラメキだろうが、
それをまず形にしないことには、
自分とヒラメキを分離出来ないのである。
自分とヒラメキを分離出来たら、
ようやく批評をはじめればいいだろう。
経験的に言えることは、
「この煮詰まった状況を打開する、救世主のようなヒラメキ」
に見えるものは、たいていが大したことないヒラメキである。
煮詰まった状況から見れば救世主だが、
それを知らない人から見たら普通の思いつきにすぎないことが多い。
人は結局相対的にしかものを見れないことを、
時々思い出すとよい。
そのヒラメキを単体で聞いたとき、
つまり文脈に関係なくそれを見つめたとき、
なんだか面白そう、と思えたら、
それは神のヒラメキである可能性がある。
(たとえば天狗という古臭いものが現代の心の闇を切る、
という構図は、現代に失われたものを炙り出す意味合いがある、
という意味で、そのヒラメキ自体は面白そうな気がする。
神のヒラメキかどうかは、完結すれば分かるだろう)
その思いつきは、神か悪魔か。
自分と分離できたとき見えてくるのだとしたら、
なるべく早く、骨子だけでも作り終えてしまおう。
それがコツのような気がする。
2016年09月28日
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