「脳は運動を記憶できない」という仮説に関して、
以前議論した。
だから話や流れというのは記憶しづらく、
場面や絵の記憶になりがちなのだという経験則の裏付けになると。
しかし我々の仕事は流れをつくり、整形し、比較したり、
一部を取り出したり交換したりすることにある。
これは脳でやるより体感覚でやったほうがいいんじゃないか、
という更に進んだ経験則を出してみる。
(運動の記憶は小脳や神経系に刻まれるはずだから、
学術的にもそう間違ってないと思う)
たとえば前記事における、
CMと小説の物語構造が同一であるかどうかという判断や、
あれをああすればこうなるだろうという想像を、
頭のなかだけでやると、途端にオーバーヒートしてしまう。
どうにかして話の構造を把握しようと、
人物関係図を紙に書いたり、
大まかな話の構造(あらすじ)を紙に書いたり、
場所の移動を紙に書いたり、
足された部分を別の色でそれに書き足してみたり、
してみることはとても良いことだ。
(脚本添削スペシャル2016で、似たようなことはしたよね)
だが、どんな図を見たとしても、
理解を助けることにはならない。
実は図を書くときに大事なことは、
「自分で図を書くときに理解が進む」という事実だ。
書かれた図(静止画)が重要なのではなく、
図にすること(動的作用)が重要なのだ。
勉強は、既に出来ているものをコピーしても身に付かない。
自分なりの図を作っていく過程で身につけるものである。
日本人はそれを経験的に知っていて、
寺子屋の勉強は、暗唱や手を動かすことが中心だった。
コピーという結果が目的ではなく、
コピーする過程、運動の繰り返しが目的であったのだ。
(その苦痛を省くために、
たとえばマトリックスではカンフーの記憶をダウンロードする、
という場面がある。
恐らくだが、そのやり方ではカンフーは使えない。
カンフーは運動的技能であるから)
運動的流れは、
体で覚えるものであって、
頭で記憶するものではない。
そして、流れは頭で記憶できない。
ということは、
必然的に流れは体で記憶する、ということになる。
カンフーの型のようなものを想像してもよいが、
そんなものはないだろう。
逆に、あなたが他人に自分の経験を話すときを想像しよう。
手振り身振りをつけて話すのではないか?
その手振り身振りは、観客の注意を引くためか?
違うだろう、あなたの記憶を思い出すための無意識の動作ではないか?
あっちからこっちへ、とか、これはここに置いといてとか、
さっきこっちにあったやつの中の、これが今度は重要で、とか、
無意識に空間と連動して、流れを説明しているのではないか?
これはあくまでも仮説だけど、
この手振り身振りを禁止されて話をしてみよ、
と言われると、かなり困難を覚えるのではないだろうか?
たとえば前記事の、二番目の彼女にしてください、
という話を、全く知らない人に話すとき、
手振り身振りを使ってよいという場合と、
言葉だけで話すときを想像しよう。
手振り身振りを使った方が、
いいよどんだ時の回復なども含めて、
ずっと話しやすいのではないだろうか?
あまり論理的ではないけれど、
運動的流れ的記憶は、体に宿る、
という仮説を出してみる。
つまり、話の構造は、頭でなく、
体の感覚を使ってやるといい。
こういうものがこうなって、次にああなって、
などという記憶は、多分体に宿る。
だから、リライトのときも、
体が気持ちいい流れになるかどうかで判断するといい。
そもそも良くないリライトは、
話が「ぎくしゃくしている」とか「ガタガタする」などのように、
運動的言語でとらえていることが、
なんとなくその証拠であるような気がする。
第一稿は無意識で書くから、
体の感覚が気持ちいいように書く。
リライトは、頭でついやってしまう。
論理的にこうだから、とか、これを先にやらないと矛盾する、とか、
都合でこうならざるを得ない、などのように。
それは、体の感覚を無視したリライトになり、
必ずぎくしゃくしている話になる。
そのリライトの要件を脳で整理したら、
最後に体の感覚でリライトすると、
大抵いい原稿になるというものだ。
たいへんだし、難しいけど。
(大抵はその最後の段階をさぼってしまって、
頭ではこうだから、と体の感覚から逃げてしまうことが多い)
何言ってるのか、経験がない人には分かりにくいかも知れない話ですいません。
最後に、面白い動画を貼っておこう。
エクストリームスキーヤーで知られる、
Canded Thovex氏のスーパープレイをゴープロカメラで、
主観で繋いだものだ。すげえトリックばかりで、落ちまでついてる。
冒頭以外は合成なしでやってると思う。
既に滑ったあとがあるから、何テイクかやり、
ベストを繋いだのだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=yKP7jQknGjs
(つべで、one of those days 2で検索しても出てきます)
さて、この映像で僕がいいたいことは、
これを記憶するときの問題だ。
人に流れを説明してみて。
手振り身振りなしには出来ないと思う。
つまり、運動の記憶なんだよね。
サムネイル画像が、ちっともこの運動の記憶を代表しきれていない。
つまり物語という流れは、静止画ではないのである。
2016年10月01日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック