2016年10月01日

話の記憶は体に宿る(仮説)

「脳は運動を記憶できない」という仮説に関して、
以前議論した。
だから話や流れというのは記憶しづらく、
場面や絵の記憶になりがちなのだという経験則の裏付けになると。

しかし我々の仕事は流れをつくり、整形し、比較したり、
一部を取り出したり交換したりすることにある。
これは脳でやるより体感覚でやったほうがいいんじゃないか、
という更に進んだ経験則を出してみる。
(運動の記憶は小脳や神経系に刻まれるはずだから、
学術的にもそう間違ってないと思う)


たとえば前記事における、
CMと小説の物語構造が同一であるかどうかという判断や、
あれをああすればこうなるだろうという想像を、
頭のなかだけでやると、途端にオーバーヒートしてしまう。

どうにかして話の構造を把握しようと、
人物関係図を紙に書いたり、
大まかな話の構造(あらすじ)を紙に書いたり、
場所の移動を紙に書いたり、
足された部分を別の色でそれに書き足してみたり、
してみることはとても良いことだ。
(脚本添削スペシャル2016で、似たようなことはしたよね)

だが、どんな図を見たとしても、
理解を助けることにはならない。
実は図を書くときに大事なことは、
「自分で図を書くときに理解が進む」という事実だ。
書かれた図(静止画)が重要なのではなく、
図にすること(動的作用)が重要なのだ。

勉強は、既に出来ているものをコピーしても身に付かない。
自分なりの図を作っていく過程で身につけるものである。
日本人はそれを経験的に知っていて、
寺子屋の勉強は、暗唱や手を動かすことが中心だった。
コピーという結果が目的ではなく、
コピーする過程、運動の繰り返しが目的であったのだ。
(その苦痛を省くために、
たとえばマトリックスではカンフーの記憶をダウンロードする、
という場面がある。
恐らくだが、そのやり方ではカンフーは使えない。
カンフーは運動的技能であるから)

運動的流れは、
体で覚えるものであって、
頭で記憶するものではない。
そして、流れは頭で記憶できない。

ということは、
必然的に流れは体で記憶する、ということになる。

カンフーの型のようなものを想像してもよいが、
そんなものはないだろう。
逆に、あなたが他人に自分の経験を話すときを想像しよう。
手振り身振りをつけて話すのではないか?
その手振り身振りは、観客の注意を引くためか?
違うだろう、あなたの記憶を思い出すための無意識の動作ではないか?
あっちからこっちへ、とか、これはここに置いといてとか、
さっきこっちにあったやつの中の、これが今度は重要で、とか、
無意識に空間と連動して、流れを説明しているのではないか?

これはあくまでも仮説だけど、
この手振り身振りを禁止されて話をしてみよ、
と言われると、かなり困難を覚えるのではないだろうか?

たとえば前記事の、二番目の彼女にしてください、
という話を、全く知らない人に話すとき、
手振り身振りを使ってよいという場合と、
言葉だけで話すときを想像しよう。
手振り身振りを使った方が、
いいよどんだ時の回復なども含めて、
ずっと話しやすいのではないだろうか?


あまり論理的ではないけれど、
運動的流れ的記憶は、体に宿る、
という仮説を出してみる。

つまり、話の構造は、頭でなく、
体の感覚を使ってやるといい。
こういうものがこうなって、次にああなって、
などという記憶は、多分体に宿る。
だから、リライトのときも、
体が気持ちいい流れになるかどうかで判断するといい。

そもそも良くないリライトは、
話が「ぎくしゃくしている」とか「ガタガタする」などのように、
運動的言語でとらえていることが、
なんとなくその証拠であるような気がする。

第一稿は無意識で書くから、
体の感覚が気持ちいいように書く。
リライトは、頭でついやってしまう。
論理的にこうだから、とか、これを先にやらないと矛盾する、とか、
都合でこうならざるを得ない、などのように。
それは、体の感覚を無視したリライトになり、
必ずぎくしゃくしている話になる。
そのリライトの要件を脳で整理したら、
最後に体の感覚でリライトすると、
大抵いい原稿になるというものだ。
たいへんだし、難しいけど。
(大抵はその最後の段階をさぼってしまって、
頭ではこうだから、と体の感覚から逃げてしまうことが多い)


何言ってるのか、経験がない人には分かりにくいかも知れない話ですいません。

最後に、面白い動画を貼っておこう。
エクストリームスキーヤーで知られる、
Canded Thovex氏のスーパープレイをゴープロカメラで、
主観で繋いだものだ。すげえトリックばかりで、落ちまでついてる。
冒頭以外は合成なしでやってると思う。
既に滑ったあとがあるから、何テイクかやり、
ベストを繋いだのだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=yKP7jQknGjs
(つべで、one of those days 2で検索しても出てきます)

さて、この映像で僕がいいたいことは、
これを記憶するときの問題だ。
人に流れを説明してみて。
手振り身振りなしには出来ないと思う。
つまり、運動の記憶なんだよね。

サムネイル画像が、ちっともこの運動の記憶を代表しきれていない。
つまり物語という流れは、静止画ではないのである。
posted by おおおかとしひこ at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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