2016年10月02日

話の記憶は体に宿る(仮説)2

体に残る以外の記憶、
つまり頭の中に残る話の記憶は、以下のようなもの。


ビジュアル。
一枚絵(イコン)。
人物関係図(図でなくても、図にかこうと思えば書ける)。
舞台になった場所の関係。
設定。
結論。
前提と結論のペア。
登場人物がどういう人か。ビジュアル、人柄、設定。


これらは、これまで議論してきた、
「素人が、これがお話だと誤解するもの」のリストと殆ど同じだ。
お話、つまり「流れ」に必要なものが抜け落ちている。

欠落や渇きや目的や動機という初期ベクトル、
それぞれの人物間での目的の相違(コンフリクト)、
時々の焦点とターニングポイントで焦点がどう変わったか、
おおまかな話の流れと、細かい話の流れや経緯、
メインプロットとサブプロットの絡み合い、
流れの変節ぶりの面白さ、
こう思ってたらこう来た、という面白さ(伏線、どんでん返し含む)、
最終的に人物がどう変化したかという運動の記憶、
などなど。


脳内に記憶されるのは、時間微分したものが0、
すなわち、時間軸上で変化しないものが記憶される。

一方、時間微分して0でないもの、
つまり動的変化そのものは、脳内に記憶されにくい。
(変化の様ではなく、ビフォーアフターのような記憶のされ方をする)
その変化率のような記憶は、
大脳ではなく、
小脳や神経系、つまり体の記憶として格納される、
というのが僕の仮説である。



これを理解した人としてない人で、
おそらくかなりの齟齬があると思う。

まずライターとして、
理解してない人は頭でっかちのものしか作れない。
うまく完結させられない。変化が書けない。
ただの状態しか書けない。目的のぶつかり合いや変化が書けない。
逆に理解してる人は、流れを操ることに長ける。

観客として、
理解してない人は、設定厨やキャラ厨になり、ストーリーを批評できない。
場面のいい悪いだけを言う。
理解してる人と、議論すら出来ないかも知れない。

スタッフとして、
理解してない人は、間違った指示をライターに出す。
流れと関係ないものを話だと勘違いし、
キャスティングやロケ地のことばかり考える。
マスコミもだ。(ジョジョの実写化で発表された要素を見よ)
予告編スタッフ、宣伝スタッフも、理解してない人が作ってるそ。

お話を作ろうとしているのはライター一人で、
他のスタッフは全員「状態」を作ることをやろうとする、
それが今の邦画の現状かも知れないね。



お話とは何か?
大脳と体で、理解し記憶するものだと、ぼくは考える。
それが大脳偏重になっている。

身体が失われた現代人の感覚で、
身体感覚があった時代に生まれた文化を、
理解したり操作したりしようとすることが、
問題なのである。
身体が失われた現代人の生んだ文化は、
ネットの点だ。精々点と点の1リンクで、ネットワークではない。
一生モニタの前でインスタとかいいねとかやってろや。


というようなことを理解してしまったら、
どうすればいいかね。
理解してない人との齟齬を、一生感じるだろうね。
黙って面白い話を書いて、実践するしかないね。

スポーツをしたりジムに行くことは、
身体感覚を取り戻すことに役に立つか?
それは分からないが、今日の俺は減量のため泳ぐ日なのである。
村上龍も泳ぐらしい。
posted by おおおかとしひこ at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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