体に残る以外の記憶、
つまり頭の中に残る話の記憶は、以下のようなもの。
ビジュアル。
一枚絵(イコン)。
人物関係図(図でなくても、図にかこうと思えば書ける)。
舞台になった場所の関係。
設定。
結論。
前提と結論のペア。
登場人物がどういう人か。ビジュアル、人柄、設定。
これらは、これまで議論してきた、
「素人が、これがお話だと誤解するもの」のリストと殆ど同じだ。
お話、つまり「流れ」に必要なものが抜け落ちている。
欠落や渇きや目的や動機という初期ベクトル、
それぞれの人物間での目的の相違(コンフリクト)、
時々の焦点とターニングポイントで焦点がどう変わったか、
おおまかな話の流れと、細かい話の流れや経緯、
メインプロットとサブプロットの絡み合い、
流れの変節ぶりの面白さ、
こう思ってたらこう来た、という面白さ(伏線、どんでん返し含む)、
最終的に人物がどう変化したかという運動の記憶、
などなど。
脳内に記憶されるのは、時間微分したものが0、
すなわち、時間軸上で変化しないものが記憶される。
一方、時間微分して0でないもの、
つまり動的変化そのものは、脳内に記憶されにくい。
(変化の様ではなく、ビフォーアフターのような記憶のされ方をする)
その変化率のような記憶は、
大脳ではなく、
小脳や神経系、つまり体の記憶として格納される、
というのが僕の仮説である。
これを理解した人としてない人で、
おそらくかなりの齟齬があると思う。
まずライターとして、
理解してない人は頭でっかちのものしか作れない。
うまく完結させられない。変化が書けない。
ただの状態しか書けない。目的のぶつかり合いや変化が書けない。
逆に理解してる人は、流れを操ることに長ける。
観客として、
理解してない人は、設定厨やキャラ厨になり、ストーリーを批評できない。
場面のいい悪いだけを言う。
理解してる人と、議論すら出来ないかも知れない。
スタッフとして、
理解してない人は、間違った指示をライターに出す。
流れと関係ないものを話だと勘違いし、
キャスティングやロケ地のことばかり考える。
マスコミもだ。(ジョジョの実写化で発表された要素を見よ)
予告編スタッフ、宣伝スタッフも、理解してない人が作ってるそ。
お話を作ろうとしているのはライター一人で、
他のスタッフは全員「状態」を作ることをやろうとする、
それが今の邦画の現状かも知れないね。
お話とは何か?
大脳と体で、理解し記憶するものだと、ぼくは考える。
それが大脳偏重になっている。
身体が失われた現代人の感覚で、
身体感覚があった時代に生まれた文化を、
理解したり操作したりしようとすることが、
問題なのである。
身体が失われた現代人の生んだ文化は、
ネットの点だ。精々点と点の1リンクで、ネットワークではない。
一生モニタの前でインスタとかいいねとかやってろや。
というようなことを理解してしまったら、
どうすればいいかね。
理解してない人との齟齬を、一生感じるだろうね。
黙って面白い話を書いて、実践するしかないね。
スポーツをしたりジムに行くことは、
身体感覚を取り戻すことに役に立つか?
それは分からないが、今日の俺は減量のため泳ぐ日なのである。
村上龍も泳ぐらしい。
2016年10月02日
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