我々は嘘つきである。
フィクションというのは、嘘のことだ。
我々は嘘をつくことで、世の中の真実を描く者である。
真実から真実が表現されるわけではない。
より真実を表現しやすいように、
我々は現実をねじ曲げ、
真実の導出に容易なように変形する。
その意味で、我々は真実を語る者であり、
その為に嘘を捏造する工夫をする者だ。
極端には、ファンタジー世界という嘘をつく。
時代劇だってそんな話が過去にあったわけじゃない。
実在しない事件、架空の人物、
架空の町で、架空の会話が行われるわけだ。
全ては嘘であり、虚構である。
しかし、それが嘘っぱちだと思われては負けだ。
これは真実かも知れないと思われないと、
フィクションは敗北である。
つまり、我々の嘘は、真実よりも真実らしくつかれなければならない。
さて、嘘をつくコツは、本当を混ぜることである。
どこからどこまでが本当で、
どこからどこまでが嘘か分かりにくくなるからだ。
純度100の嘘はばれる。
30か50か70か、本当のことを入れておくと、
嘘は真実らしくなってくる。
浮気の理由が100%嘘だとばれる。
嫁と喧嘩した、という真実をたとえば混ぜると、
それは嘘とも本当ともつかないことになる。
つまり、その効力の範囲内で、さらに嘘をつける。
取材をするのはこのためだ。
たとえば僕は大阪出身だから、
下手くそな関西の表現はさぶいぼが立つ。
嘘がバレバレになる。
しかし、関西人ならではのことが描かれていると、
こいつ分かっとるな、という信用をする。
分かってなくて勝手にやるやつより、
分かっててその上で嘘をつくのなら、
ちょっとそれに乗ったろかい、と寛容になるのである。
たとえば先日見た邦画で、
リリーフランキーが大阪の師匠として描かれていたが、
あまりにも大阪弁が下手で、大阪の人情が台無しであった。
こういうのを見ると、この監督は人間の何を大事にしているのだろう、
と疑問が湧き、この大事にしている部分が嘘に見えてくる。
関西人じゃないとしたら、
たとえばピアノを弾く場面が、よくある話だ。
ピアノ経験者は、俳優がほんとにピアノを弾いてるか、
すぐ分かるのだそうだ。
ちなみに僕は分からない。
その人が格闘技経験者かどうかはすぐわかる。
物語というのは、
関西人も見るし、関西人以外も見るし、
ピアノを習った人も見るし、ピアノを習ってない人も見るし、
格闘技経験者も未経験者も見るし、
浮気をした人もされた人も、浮気がなかった人も見る。
色々な人が見る。
色々な人が、自分の経験と照らし合わせて見る。
自分の経験は、物語の理解の手がかりだからだ。
自分の経験からして、あまりに嘘っぽければ、
それはフィクションだと白けるだろう。
それが本当のことを取材して、
わかった上で嘘をついていれば、
よう分かっとるな、と、
本当を踏まえた嘘に、のめり込めるのである。
ファンタジー世界でのドラゴンはたとえば大嘘であるが、
体内に化学物質をつくり、
混ぜて反応を起こして高温の毒を出す虫の話があると、
ドラゴンのブレスは現実味を少し帯びる。
そのようにして、本当を嘘に混ぜていくとよい。
今ぼくは、ノルウェーの雪の季節を調べている。
それが最終的に作品の中に反映されるかは不明だけれど、
本当らしさの為に必要だと思ったので、
調べものをしてる次第だ。
(ちなみにその結果。
ノルウェーではスキーシーズンが半年あるんですって。へえ。
ついでに、バルセロナが大体秋田の緯度なんだって。へえ。
ヨーロッパの殆どは仙台より北なんだ。へえ。寒いんだね!
ノルウェーの一番南は、札幌より北海道5個ぶん北。そうだったのか)
我々は嘘つきである。
本当のことを混ぜることで、
嘘を本当らしくする、巧妙なる嘘つきである。
なぜなら、嘘だと見破られると、我々の負けだからだ。
我々は、真実を嘘で描く者である。
2016年10月02日
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