2016年10月05日

小説と映画は真逆である

小説のもっともいいところは、
文から絵や事情を想像する瞬間にある。

映画のもっともいいところは、
絵から気持ちや事情を想像する瞬間にある。
(最良の台詞は無言である、というハリウッドの格言は、
余計な説明がなくとも、これまでの文脈でこの絵を見れば明らかだ、
という到達点をつくることだ、という意味だと僕は思う)

つまり、結構真逆の本質をもってるんじゃないか?



たとえば。

 扉の向こうに誰かがいるのは分かっている。

という小説の文を映像で表現することは難しい。
これを映像のカット割りでやるならば、

 扉のすりガラスに写る影、物音を立てないようにする扉の向こうの足元、
 覗かれているようなアングルの主人公、
 主人公、聞き耳を立てる。

などのようなカットを「積み重ねて」(モンタージュ)
表現しなければならないだろう。
小説が統合された感覚なのに対して、
映像は客観的なものを並べ、感覚を統合していくものである。

映像は、小説のようなシンプルな表現にならないのは
こういうわけだ。

また、こなれた役者がいれば、
「扉の向こうに誰かがいるのは分かっているから、
あえて気づかれないように日常のことを続ける」
ことを映画で表現することは可能だ。

 男、扉の向こうの気配に気づく。
 しかし悟られないよう、コーヒーの豆をひきつづける。

などのようにだ。
これがコーヒーの豆になるかトランプになるか新聞か煙草かは、
文脈や状況によって異なるだろうが、
なんでもいいという点ではマクガフィンだね。

このような具体的な表現になれば、
映像でシンプルにこの感覚を表現することが可能になる。

つまり、
文でシンプルに表現できることと、
映像でシンプルに表現できることは、
異なる。

で、名文ほどシンプルな文になるし、
名映像ほどシンプルなカットになる。
つまり、名文と名映像は、
全く違うものを表現するのである。


扉の向こうの気配という感覚は、
一人称的感覚だ。
一人称小説というのは、
「その人の感覚を読み、その人の置かれた感覚を想像して追体験する娯楽」
だと僕は思う。

逆に三人称である映画は、
客観的な状況を見て、そこで誰もが体験したことを思い出すことで、
「きっとこの人はこういう気持ちだ。だって体験あるもの」
と、共有する娯楽だと思う。

すなわち。
一人称小説では、
特異で個人的な体験や感覚が強い。
それを想像する過程が娯楽だからだ。
三人称である映画では、
共通体験や容易に共有できる感覚が強い。
それを見て意図を分かり、その裏を想像する娯楽だからだ。


どちらも、物語というものを扱いながら、
仮に同一のプロット(客観的因果関係)だったとしても、
表現方法やフォーカスポイントが真逆になるのである。

映画と小説は別物だと思考停止するのは誰にでも出来る。
僕はこう分析する、という僕の考えである。

だから、
じつは小説を映画化するとき、
「イメージと違う」という文句はお門違いである。
「同一のプロットが表現されておらず、
因果関係の異なる作品になってしまっている」という文句は妥当だ。
そのイメージなるものを形成することが小説の白眉であり、
その小説が面白かったのはそこの部分で、
プロット自体が面白くなかった可能性すらあるわけだ。

逆に、プロットがなくとも、
「想像する遊び」は可能で、それはひとつの娯楽になる。
僕がよく言うのは、「ミニスカートのカチンコ打ち」だ。

撮影現場でカチンコ(1-3とか書いてあるやつ。
順撮りではないので、編集室でカチンコナンバー通りにまず並べる)
を打つときは、なるべく絵の中からすぐに外れられるように、
しゃがんでカチンコを打つ。

何故か超カワイイコがカチンコ打ちがとてもうまくて
(うまいカチンコ打ちは、今どういう絵を撮っているか分かっているから、
指示をしなくてもフレームぎりぎりに立てる)、
何故かミニスカートなんだけど、
一日中やって一度もパンチラしない、
完璧なコがいるといいなあという妄想の話だ。
で、最後にその子に耳打ちされるのだ。
「監督、私今日ノーパンだったんですよ」と。

この、「想像力の膨らむ瞬間」こそが、
言葉から情景をジェネレートする、
小説の想像の瞬間だと僕は思うのだ。


こういうのは映画では出来ない。
言葉から想像するのではなく、
絵から想像させるのが映画だからだ。

上の例だと、
そのミニスカートの女の子の尻にパンツの線がなく、
Tバックかなあと想像させて、
パンチラしそうになるけど彼女に気づかれて太股を固く閉められる、
なんて当たりの方が想像の興奮のピークがあると思われる。


同一のプロットだったとしても、
想像力の膨らみ方が異なる。
それが小説と映画は、真逆方向ではないか、
というのが今現在の僕の考えだ。

第一に、シンプルな名表現は、互いにカバーする範囲が違うこと。
(トンネルを抜けるとそこは雪国であった、
に匹敵するワンカットの映像はない。
電車主観の絵ではこの名文に迫れない)
第二に、小説は言葉から絵を想像する瞬間がよく、
映画は絵から言葉(や事情)を想像する瞬間がよいこと。


つまりそれでも同一の物語にするには、
表現を変えなければならないこと。

実は、
「小説とは描写である」なんて名言があるぐらいで、
小説はプロットじゃなくて、
想像力の部分がメインなのかも知れない。
映画は7割がプロットで決まると僕は思う。

で、全体からガワを引いた骨格が、脚本という形式だ。
だから脚本を読むにはそれなりのわきまえが必要で、
それをわきまえてない人が、
「絵が浮かばない」なんてバカなことを言うんじゃないかね。
posted by おおおかとしひこ at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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