2016年10月08日

セカイ系は物語か

乱暴な議論をする。


セカイ系は、男が開拓地を見失い、
恋愛という開拓地を見つけた物語だ、
という乱暴な議論をする。


男は孤独な生き物である。
群れを形成するのは弱い男か、
共通の目的があるときか、
群れを倒すときである。

男の興味は群れにはない。
外の地の開拓にある。

しかし20世紀の終わりには、
もう開拓地がなくなってしまった。
月や火星は開拓地としては遠すぎた。

一方、女が男と同様の権利を持ったので、
女の最大の関心、
群れの内部のこと、恋愛のことが、
世界の半分の関心事になった。

開拓地を失った男は、
それを新たな、開拓地と思った。
コミュ充の誕生だ。

コミュ充になれなかった男は、
恋愛という開拓地を、
本来の開拓精神で描く。

つまり、恋愛という関心事が最大でありながら、
世界の滅亡をストップすることが、
恋愛の成就になるという、
セカイ系の物語である。

コミュ充でない男は、
恋愛したいのだが、
そのやり方が分からないので、
男にとっての開拓の物語、
世界の開拓や滅亡を描くことで、
恋愛という開拓地のことを代わりに表現する。

だから、
セカイとキミは同一であり、
セカイとボクも同一で、
セカイには、ボクとキミしかいない。


セカイ系は、女は描かない。
それは、
女は本来コミュ充の生き物で、
世界の開拓には興味がないからだ。

ところが、コミュ充でない女も増えてきた。
イケメン男子からあぶれた恋愛敗者の女も多い。
だから、セカイ系に反応する。
ファンタジーとしてだ。



大まかにいうと、
何故これが「君の名は。」が受けているかの説明だ。
我ながら乱暴な議論なので、
妥当性は知らない。異論も受け付けない。

男は、開拓地を失い、コミュ障のまま恋愛を開拓しなければならない。
女は、コミュ充の話を喜び、コミュ障の女はファンタジーを喜ぶ。

この20世紀末から21世紀初頭の現状に、セカイ系はピタリとハマったわけだ。


今後も似たようなものが受けるだろうが、
「君の名は。」が、時空的にデカイことをやってしまったので、
これ以下の規模のセカイ系になると思う。
そういう意味では、
「最終兵器彼女」「エヴァンゲリオン」
「ぼくらの」「ほしのこえ」
あたりから始まったセカイ系は、
完成を迎え、これから衰退期に入るのではないだろうか。

ラブストーリーは女にとって全てだったが、
女だって政治や科学や世界の命運を考えてもいい。
男にとって、ラブストーリーやコミュニケーションが全てのこともある。
そういう時代に入ったからである。
セカイ系は、その時代に入る過渡期の、適応現象だったのではないかなあ。

ということで、
セカイ系は物語か?
という問いは、適応現象として必要な物語であったが、
今後は必要とされなくなる、という答えではないか。
論証は、社会学者とかがやればいいさ。
posted by おおおかとしひこ at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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