乱暴な議論をする。
セカイ系は、男が開拓地を見失い、
恋愛という開拓地を見つけた物語だ、
という乱暴な議論をする。
男は孤独な生き物である。
群れを形成するのは弱い男か、
共通の目的があるときか、
群れを倒すときである。
男の興味は群れにはない。
外の地の開拓にある。
しかし20世紀の終わりには、
もう開拓地がなくなってしまった。
月や火星は開拓地としては遠すぎた。
一方、女が男と同様の権利を持ったので、
女の最大の関心、
群れの内部のこと、恋愛のことが、
世界の半分の関心事になった。
開拓地を失った男は、
それを新たな、開拓地と思った。
コミュ充の誕生だ。
コミュ充になれなかった男は、
恋愛という開拓地を、
本来の開拓精神で描く。
つまり、恋愛という関心事が最大でありながら、
世界の滅亡をストップすることが、
恋愛の成就になるという、
セカイ系の物語である。
コミュ充でない男は、
恋愛したいのだが、
そのやり方が分からないので、
男にとっての開拓の物語、
世界の開拓や滅亡を描くことで、
恋愛という開拓地のことを代わりに表現する。
だから、
セカイとキミは同一であり、
セカイとボクも同一で、
セカイには、ボクとキミしかいない。
セカイ系は、女は描かない。
それは、
女は本来コミュ充の生き物で、
世界の開拓には興味がないからだ。
ところが、コミュ充でない女も増えてきた。
イケメン男子からあぶれた恋愛敗者の女も多い。
だから、セカイ系に反応する。
ファンタジーとしてだ。
大まかにいうと、
何故これが「君の名は。」が受けているかの説明だ。
我ながら乱暴な議論なので、
妥当性は知らない。異論も受け付けない。
男は、開拓地を失い、コミュ障のまま恋愛を開拓しなければならない。
女は、コミュ充の話を喜び、コミュ障の女はファンタジーを喜ぶ。
この20世紀末から21世紀初頭の現状に、セカイ系はピタリとハマったわけだ。
今後も似たようなものが受けるだろうが、
「君の名は。」が、時空的にデカイことをやってしまったので、
これ以下の規模のセカイ系になると思う。
そういう意味では、
「最終兵器彼女」「エヴァンゲリオン」
「ぼくらの」「ほしのこえ」
あたりから始まったセカイ系は、
完成を迎え、これから衰退期に入るのではないだろうか。
ラブストーリーは女にとって全てだったが、
女だって政治や科学や世界の命運を考えてもいい。
男にとって、ラブストーリーやコミュニケーションが全てのこともある。
そういう時代に入ったからである。
セカイ系は、その時代に入る過渡期の、適応現象だったのではないかなあ。
ということで、
セカイ系は物語か?
という問いは、適応現象として必要な物語であったが、
今後は必要とされなくなる、という答えではないか。
論証は、社会学者とかがやればいいさ。
2016年10月08日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック