先日ひどいポスターを見たので、
広告業界人として、
製作委員会のダメなシミュレーションをしたい。
結論は、
「複数の意見を反映させると、表現はダメになる。
何故なら、表現とは鋭いときに最も強いからだ」
である。
駅張りのこれを見てみよう。
スマホ撮影のため、細かい文字は見にくくて申し訳ない。
なんだかよくわからない広告だ。
電気自由化で、東急の電気にするとお得です、
と伝えるためのポスターだと分かるのは、
僕が広告業界人だからかも知れない。
ほとんどの人は無視する出来の、平凡なポスターである。
おそらくこれは、最初はこういうシンプルなデザインだったのではないかと考えられる。
(素材を元に加工)
「半年も損してたのか!」という発見がキャッチになり、
東急でんきへの興味のフックとなる。
全体のビジュアルは、電気が損していることを暗示する暗い部屋だ。
ちなみにこれはもう少しスタイリッシュなデザインにすることが可能だ。
シャシンのトーンを変え、書体を少し品良くすれば、
全体に知的なトーンをつくることができる。
東急でんきの明るさとの落差もつき、
余計に気持ち的な誘導が効くというものだ。
このように、要素を減らし、スタイリッシュにすることがデザインである。
デザインとは表現だ。
何を強く言い、何を言わないかを決めることである。
したがって、鋭くなる。
鋭ければ鋭いほど、意味は深く刺さる。
表現というものは、このようにぎりぎりまで余計なものを捨てることで成立する。
ところで、東急サイドから見たら、
「東急でんきのサービス内容を掲示したい」となるだろう。
よくあることだ。
ということで、このデザインは少し汚される。
導線が検索だけだったのに、フリーダイヤルなどの余計な要素もついてくる。
ちょっと煩雑なデザインだが、
まあ、アイキャッチとフックは成立している範疇だろう。
このへんが実戦の落とし所だ。
さて「物言い」の本番。
「暗い。東急に暗い表現はよくない。
また、使用前は分かったが使用後のイメージがない」
と言われたと考えられる。
で、使用前使用後の比較広告になってくる。
キャッチも二重になるわけだ。
この段階でもう既にややこしい。
ややこしいから、感情の言葉をつけて、
それを象徴にする。
「うっかり」と「ちゃっかり」という対比である。
対比により、ふたつの情報量をひとつにまとめているわけだ。
さて、物言い3。
「そもそも東急でんきの利点を伝えるのに、
半分しか東急でんきの面積がないのはおかしい」
ということで、「ビフォーアフター5:5」の文法が、
3:7のビジュアルになってしまう。
一応ビフォーアフターの文法、対比法は残ってはいる。
ところが、「利点を強く伝えたいので、コピーを強調したい」と、
さらに物言いがつく。
もはや、何が言いたいのかわからないデザインになりつつある。
「東急じゃないから酷い目に」という当初の表現意図は、
「非東急と東急を比較」に半ばし、
「東急を強調」という表現へと、意味が変質していく。
そもそも東急を強調するのだとしたら、
「ちゃっかり、半年得してた!」というメインキャッチは、
キャッチ足りえるだろうか?
だったら、「東急でんきは得なので、おかずが一品増えた!」
とかのほうが、ベタだけどリターンをうまく言えないだろうか。
さて、もう一度完成品を見てみよう。
ちなみにデザイナーの意地で、
ビフォーアフター感を分かりやすくするために、
ビフォーのキャッチコピーは凹むような曲線があり、
アフターのキャッチコピーは凸の曲線になっていることに気づかれただろうか。
ビフォーアフターに拘るデザイナーの意地が透けて見える。
(残念ながら、既にビフォーアフターの表現は崩れているので、
今さらビフォーアフターに拘る意味はない。
すなわち既にこの作品は、
最初のコンセプトが台無しになっている、
失敗作である。
この時点で少しでも表現であろうとするそれは、
もはや後ろ向きの努力、悪あがきかも知れない)
さらに完成版は、「東急パワーサプライ」の下帯入りになっており、
「あたらしい生活体験を、エネルギーとともに。」
なんていうメッセージもついて、もはやどこをどう見てどう理解すればいいのか、
意味不明な表現になっている。
だから、人はこんなポスターを無視して通り過ぎる。
もう一度並べて見てみよう。
最初のシンプルなアイデアは、
こうして汚染され、
様々な思惑が入り込み、
最初の存在感とは全く異なる、
呉越同舟の公共工事へと変貌してゆく。
どうでもいい企業のどうでもいいポスターだから、
全くどうでもいいのだが、
これが今の日本映画界の製作委員会で起きていることと、
そう変わりないと思えば、ことは深刻だ。
どうしたらこのような悲劇を防げるだろう?
そもそも、
「暗い絵でガッカリ感を出す表現」という、
最初のコンセプトがが気に入ってないのなら、
最初の時点ではねるべきだったのだ。
「非東急/東急の比較広告」を意味としてやるならば、
たとえばこういう表現があり得た。
僕はこういうユーモアが好きだが、
東急はそんなハイブロウな表現を理解しないだろう。
つまりは、これらの「比較表現」自体が、
そもそも大した作品に昇華しえないものだったのである。
さて、これらの作例は、
ビジュアルをだいぶん作り込んでみなさんに示している。
フォトショやらなんやらを駆使しているわけだ。
結構な手間がかかる。
しかしこれを手間をかけずにやる方法がある。
「ラフアイデア」である。
つまり、
「暗い部屋にスポットがついていて、うっかり半年損してた、というビジュアル」
「暗いのと明るいのを比較するビジュアル」
「雰囲気は暗いんだけど、『東急でんきは物理的に明るい』というブラックユーモア」
「電気代を得した、という喜びの表現がメインビジュアル」
という、
「文字だけで方向性を決める」
ことさえ、
事前に合意が取れていれば、
余計なフォトショはやらなくて済むのだ。
このラフアイデアのことを、
広告業界では「コンセプト」という。
複数の人々が決定意志を持つときは、
「コンセプトの合意」が最も肝心である。
ビジュアルの細かい直しや好みの反映はするべきでなく、
「コンセプトに沿っているかどうか」をチェックするべきだ。
「何かつくって見せないとイメージがつかめない」は間違っている。
「何をこれからつくるかの、方向性を決める」が、
「コンセプト決め」である。
今の製作委員会は、
コンセプトの合意なしに、
製作をはじめてしまっている。
だいたいできるまで、どういうものが出来るか想像がつかない素人だからだ。
結局、全部つくって比較する、なんてバカなことをする人もいる。
みっつ作るなら、三倍金がかかるというものなのに。
広告に莫大な金がかかるのは、
このように、何個も途中でつくることで、合意をすすめるからである。
これは間違ったやり方だ。
コンセプトさえ決まれば、
その後表現はどんどん鋭くなっていくからである。
たとえば最初のコンセプトでは、
ふつうのビジュアルから、スタイリッシュな表現へと鋭くすることが出来た。
時間と金は、その鋭く磨くことにかけるべきだ。
それが「制作費」というものだ。
今の製作委員会は、
台本を完成させないと、その先の会議ができない。
コンセプトで合意できるプロフェッショナルが集まっていない。
最初のものをつくり、
全然違う台本に変えられてゆく。
一枚絵だからまだましだ。
120枚の原稿用紙を書き直す手間や労力を想像しよう。
暗い部屋のコンセプトから、
比較にコンセプトが変わり、
喜びの表現にコンセプトが変わる。
それを全部書き直す脚本家の心労を想像しよう。
そりゃ、つぶされるよね。自殺もするわ。
ちなみに、誘導先のホームページのスクショをあげておく。
最初のコンセプトは1ミリも残っていないわけだ。
そりゃ、つぶされるよね。自殺もするわ。
最初のコンセプトは、どんどん曲がって行き、
誰も喜ばないものが出来上がる。
そもそも表現とは、
たった一点に鋭く刺さらなければ意味がない。
その為に削ぎ落とし、シンプルな表現に煮詰めていくものだ。
それが色々な方向から物言いがつけば、
それらがよれていくのである。
それらの物言いを全て満足する、
とても平凡なものしか出来上がらない。
こうして、最初のコンセプトから、
似ても似つかぬ平凡な作品(もはや作品のレベルではなく、
誰も見ないノイズである)
に、成り下がって、
「デザイナー(脚本家、監督)が良くなかった」
という悪評判(それは真実ではない)だけが残るわけだ。
解決方法はふたつだ。
最初のコンセプトのままやり、物言いをつけないか、
最初のコンセプトを思い切って捨て、
全員の合意するシンプルでキャッチーなアイデアを考え出すまで、
コンセプトをやり直すか。
で、
広告も、映画の製作委員会も、
どちらの方法もとっていない。
曖昧なやり取りのまま、
悲惨な作品以前のゴミを量産し続けている。
「コンセプトを合意し、ディテールは任せる」のが本来の合意方法だと思う。
その為にハリウッドでは、ログラインというものがあるわけだが、
日本式には、脚本全部書くまでそれがない。
「いけちゃんとぼく」では、撮影中にも編集中にも、どんどん台本を変えられていった。
僕は大問題だと考えている。
2016年10月19日
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