2016年10月12日

観客は「自分ならどうするだろう」と思いながら見ている

そこそこ興味を引かれて、
ある程度感情移入していれば、
その困難な状況を、
「自分ならどうするだろう」と思いながら見ているものだ。
つまり、受動的メディアであるはずの映画に、
観客は参加している。
逆に、豚に餌をやるみたいに、一方的に垂れ流しているわけではない。
(愛情ある豚の育て方はそうじゃないかも知れない)

優れた物語は、皆観客を参加させる。


問題は、
その参加している観客が、
「自分ならこうするだろう」と想像しているものより、
下回ったときだ。

事情は大体分かる、
気持ちも分かる、
リスクも分かる、
自分ならこうやって解決するだろう、
そう想像したものよりも、
ヘボい選択肢を主人公が取ったら、
なんでそっちなんだよ、
普通こうするだろうよ、
と、観客に不満がたまるものだ。


シンゴジラの優れた点は、
ゴジラが現れたら、チームとしてこうする、
というのが実にリアルな対応に見えることである。
(これは脚本の一部であり全部ではない)
自分の想像しているものより、
少し上回ったとき、
「すごい」「やるなあ」という感覚が生まれる。

上回りすぎると、「よく分からない」になることに注意。
たとえばアインシュタインの伝記映画なんて、
ほとんどの彼の行動は分からないだろうね。

少しだけ、上回る。
このさじ加減が肝心だ。


少しだけ無謀。
少しだけ賢い。
少しだけ先読みが出来てる。
少しだけ勇気がある。
少しだけ甘い。
少しだけびびる。

観客の予想に対して、どう反しているか、
あなたは実感しながら書いているだろうか。
それが「客観性を持つ」ということかも知れないが、
僕は「観客とやり取りする」みたいな感覚でいる。

僕はよく「どうですかお客さん」と、
リアルな場面で冗談のように言うことがある。
それは観客に予想させ、
それを少しだけ上回った時に、
観客から漏れるため息(いい意味での)を察知して、
そういうどや顔をするのである。

その観客の予想がずれてると、
観客と噛み合わない、ということになるわけだ。


流石に10代オンリーの観客と噛み合う自信はないが、
なるべく広い層と噛み合うように努力することが、
「誰向け」なんてことを考えなくてよい、
オール観客向けのものを作れるのではないだろうか。
posted by おおおかとしひこ at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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