そこそこ興味を引かれて、
ある程度感情移入していれば、
その困難な状況を、
「自分ならどうするだろう」と思いながら見ているものだ。
つまり、受動的メディアであるはずの映画に、
観客は参加している。
逆に、豚に餌をやるみたいに、一方的に垂れ流しているわけではない。
(愛情ある豚の育て方はそうじゃないかも知れない)
優れた物語は、皆観客を参加させる。
問題は、
その参加している観客が、
「自分ならこうするだろう」と想像しているものより、
下回ったときだ。
事情は大体分かる、
気持ちも分かる、
リスクも分かる、
自分ならこうやって解決するだろう、
そう想像したものよりも、
ヘボい選択肢を主人公が取ったら、
なんでそっちなんだよ、
普通こうするだろうよ、
と、観客に不満がたまるものだ。
シンゴジラの優れた点は、
ゴジラが現れたら、チームとしてこうする、
というのが実にリアルな対応に見えることである。
(これは脚本の一部であり全部ではない)
自分の想像しているものより、
少し上回ったとき、
「すごい」「やるなあ」という感覚が生まれる。
上回りすぎると、「よく分からない」になることに注意。
たとえばアインシュタインの伝記映画なんて、
ほとんどの彼の行動は分からないだろうね。
少しだけ、上回る。
このさじ加減が肝心だ。
少しだけ無謀。
少しだけ賢い。
少しだけ先読みが出来てる。
少しだけ勇気がある。
少しだけ甘い。
少しだけびびる。
観客の予想に対して、どう反しているか、
あなたは実感しながら書いているだろうか。
それが「客観性を持つ」ということかも知れないが、
僕は「観客とやり取りする」みたいな感覚でいる。
僕はよく「どうですかお客さん」と、
リアルな場面で冗談のように言うことがある。
それは観客に予想させ、
それを少しだけ上回った時に、
観客から漏れるため息(いい意味での)を察知して、
そういうどや顔をするのである。
その観客の予想がずれてると、
観客と噛み合わない、ということになるわけだ。
流石に10代オンリーの観客と噛み合う自信はないが、
なるべく広い層と噛み合うように努力することが、
「誰向け」なんてことを考えなくてよい、
オール観客向けのものを作れるのではないだろうか。
2016年10月12日
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