2016年10月12日

下手なストーリー表現について考える2

スプレッドについて。

スプレッドは、ストーリーではない。


あるもののバリエーションを並べたものを、
カードを広げた様にたとえて、
スプレッドという。

資生堂もルミネも東京ガスも、
不幸をスプレッドしている。
不幸1、不幸2、不幸3…のように。

スプレッドの特徴は、
バリエーションを豊かに見せる一方、
その間はストーリーが進まないことである。

不幸1ゆえに不幸2が起こり、
それに対応しようとしたが失敗して、
益々ひどい不幸3になってしまった、
などがストーリーである。

不幸1と2と3は、なんらかの因果関係で結びつけられていて、
その時間的発展(この場合転落だが)を、
ストーリーとよぶのだ。

スプレッドは、並べているだけで、
その間時間は進まない。
並べているのを眺めるのに、
見る側の私たちの時間を消費するだけで、
作品内の時間は進んでおらず、
不幸1と2と3は、同一の時間のことである。

つまり、
僕が下手くそだと断じた3本のCMは、
商品が出てきて幸せになる、その前段で、
全て時間が進んでいない。

不幸1、2、3と並んだ行列を、見させられるだけである。
つまり、これらは意味的に「不幸という状況」でしかない。

物語というのは、
不幸な状況があり、
それを変えるきっかけがあり、
変えたい主人公が世界に働きかけ、
反発をくらい、
それでもどうにかして、
その不幸を変えようとし、
少し前進し、
あるいは前進しながら後退し、
どうにかして勝利を勝ち取る、
という構造をしている。

その構造に対して、
不幸の状況→商品が幸せにしてくれます、
という、主人公が何もしていないストーリーだから、
僕は下手くそと断じるのである。

原因は何か。
スプレッドをストーリーだと勘違いしたことだ。

スプレッドを眺めるには、
私たち観客の時間は過ぎる。
その時間経過を、ストーリーだと勘違いしたことにある。
状況の関数をfとすれば、
df/dt=0が、スプレッドの特徴だ。(微分を知らないなら理系に聞いて)

ストーリーとは、状況が刻一刻と変化していく様を描く。
それも自然に変わっていく受動的状況ではなく、
主人公(たち)が人為的に起こしていく変化をだ。
その経路積分が正に大きいものをハッピーエンド、
負に大きいものをバッドエンドと呼ぶだけの話である。


勿論、たかが短編であるから、
そんなに状況の変化を大きく書けない。
しかし、主人公が何を決断し、
どう状況を変化させたかは書くことが出来る。
それは(商品による)受動的メアリースーではなく、
主体的行動であるべきだ、
と教えるのが経験則たるストーリー論だ。

資生堂もルミネも東京ガスも、
ストーリーの形をしてないのに、
ストーリーものだと名乗っている。
僕はそれが下手くそだと思う。



スプレッドはストーリーではない。
我々が学ぶべきは、
これらの下手くそをそのように判断することである。

ちなみに、小ストーリーをスプレッドしたものを、
オムニバスという。
それぞれの小ストーリーは、ただバリエーションで並んでいるだけで、
一本の話にはなっていない。
ペプシ桃太郎がその典型である。
エピソード0から話は何一つ進んでいない。
全て出落ち話の集合体、オムニバスだ。

オムニバスが一本のストーリーではない、というのと同様に、
スプレッドは一本のストーリーではないのである。


つまり。

バリエーションはストーリーではない。
posted by おおおかとしひこ at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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