スプレッドについて。
スプレッドは、ストーリーではない。
あるもののバリエーションを並べたものを、
カードを広げた様にたとえて、
スプレッドという。
資生堂もルミネも東京ガスも、
不幸をスプレッドしている。
不幸1、不幸2、不幸3…のように。
スプレッドの特徴は、
バリエーションを豊かに見せる一方、
その間はストーリーが進まないことである。
不幸1ゆえに不幸2が起こり、
それに対応しようとしたが失敗して、
益々ひどい不幸3になってしまった、
などがストーリーである。
不幸1と2と3は、なんらかの因果関係で結びつけられていて、
その時間的発展(この場合転落だが)を、
ストーリーとよぶのだ。
スプレッドは、並べているだけで、
その間時間は進まない。
並べているのを眺めるのに、
見る側の私たちの時間を消費するだけで、
作品内の時間は進んでおらず、
不幸1と2と3は、同一の時間のことである。
つまり、
僕が下手くそだと断じた3本のCMは、
商品が出てきて幸せになる、その前段で、
全て時間が進んでいない。
不幸1、2、3と並んだ行列を、見させられるだけである。
つまり、これらは意味的に「不幸という状況」でしかない。
物語というのは、
不幸な状況があり、
それを変えるきっかけがあり、
変えたい主人公が世界に働きかけ、
反発をくらい、
それでもどうにかして、
その不幸を変えようとし、
少し前進し、
あるいは前進しながら後退し、
どうにかして勝利を勝ち取る、
という構造をしている。
その構造に対して、
不幸の状況→商品が幸せにしてくれます、
という、主人公が何もしていないストーリーだから、
僕は下手くそと断じるのである。
原因は何か。
スプレッドをストーリーだと勘違いしたことだ。
スプレッドを眺めるには、
私たち観客の時間は過ぎる。
その時間経過を、ストーリーだと勘違いしたことにある。
状況の関数をfとすれば、
df/dt=0が、スプレッドの特徴だ。(微分を知らないなら理系に聞いて)
ストーリーとは、状況が刻一刻と変化していく様を描く。
それも自然に変わっていく受動的状況ではなく、
主人公(たち)が人為的に起こしていく変化をだ。
その経路積分が正に大きいものをハッピーエンド、
負に大きいものをバッドエンドと呼ぶだけの話である。
勿論、たかが短編であるから、
そんなに状況の変化を大きく書けない。
しかし、主人公が何を決断し、
どう状況を変化させたかは書くことが出来る。
それは(商品による)受動的メアリースーではなく、
主体的行動であるべきだ、
と教えるのが経験則たるストーリー論だ。
資生堂もルミネも東京ガスも、
ストーリーの形をしてないのに、
ストーリーものだと名乗っている。
僕はそれが下手くそだと思う。
スプレッドはストーリーではない。
我々が学ぶべきは、
これらの下手くそをそのように判断することである。
ちなみに、小ストーリーをスプレッドしたものを、
オムニバスという。
それぞれの小ストーリーは、ただバリエーションで並んでいるだけで、
一本の話にはなっていない。
ペプシ桃太郎がその典型である。
エピソード0から話は何一つ進んでいない。
全て出落ち話の集合体、オムニバスだ。
オムニバスが一本のストーリーではない、というのと同様に、
スプレッドは一本のストーリーではないのである。
つまり。
バリエーションはストーリーではない。
2016年10月12日
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