色々苦しくなって、
場面を変えて誤魔化してしまうことはよくある。
プロでもだ。
たとえば、この先どうなるか思いつかなくて、
場面を変えて別のストーリーを挟み込み、
前の場面の決着がついたところから始めるやり方だ。
それは逃げだ。
ばれなきゃいいわけではない。
それは大抵ばれている。
この先どうなるか、作者にも分からなくなってしまうことは、
まれによくある。
シドフィールドは、
この先の場面を5通りぐらい考えて、
一番面白いやつを書け、なんて書いている。
以前議論したテヅカチャートの実戦編みたいなことだ。
僕は、作者は全て知っているべきだと思う。
つまり、作者にも分からなくなってしまうことは、
要するに準備不足だ。
準備不足なのだから、
一度立ち止まって、準備に戻ればいい。
困った場面のその先に必要なことを、
今の場面か、
前のどこかの場面に仕込めばいい。
それを利用して、先に進むことが出来るはずだ。
困ったので場面転換をするのは、
要するにスプレッドをしてしまっている。
困った場面が結果的に増えていくだけだろう。
たとえばクリストファーノーランの映画は、
数本のストーリーのカットバック進行だが、
それらのストーリーを単品で取り出しても、
全然面白くない。
それは、面白くないストーリーを、
場面転換で誤魔化しているのである。
極端な例は、いつもの「マルホランドドライブ」だ。
謎を振りまいたら、その先がなく、
次の謎の話へ進んでしまう。
結局どの謎も解明されず、
風呂敷を広げきって終わってしまう。
それは単なるスプレッド地獄になるだけだ。
ストーリーというのは、
その風呂敷を綺麗に畳んでいくのが後半だ。
つまり、畳み方も分からないのに、
広げるだけ広げるのは、未熟者の証拠だ。
オモチャで散々遊んで、片付けが出来ない子供のようだ。
場面転換して、苦しさから逃げるのは、
要するにそういうことをしてるだけだ。
事態を進めよう。
焦点を維持するか、次の焦点へ導こう。
目先を変えて誤魔化すのではなく、
次の展開に話を深化させるべきだ。
その場面である程度決着がつき、
次の焦点が生まれる、
すなわちターニングポイントが訪れるまで、
そのシーンから逃げてはならない。
そのシーンの終わりが見えるまで、
そのシーンを書き出さないことだ。
つまり、シーンはターニングポイントで終わるべきであり、
ヒキで終わるべきではない。
連載形式はまた別の話。
逆にいうと、連載形式のヒキの場面は、
映画的シナリオに取り込みにくい。
漫画が映画になりにくいのは、こうした理由もある。
(あるいは連ドラの面白いものが、
映画にすると面白くないのは、
ヒキが機能しないからだ)
2016年10月17日
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