複雑になって詰まらなくなった脚本は、
人物を減らすことでシンプルに、力強くなることがある。
人物を減らすというのは、よくあるリライトの方法論だ。
しかし、何が要らない人物か見極めるのは、
慣れていないと難しい。
コツは、良く言われることだが、
「似たような役割をする人物を一人に集約する」
ことである。
たとえば、
「主人公を導く」役割の人物が、
二人も三人もいるのなら、
それは一人に出来る。
Aという世界の案内人、
Bという原理の指導者、
Cという世界へ一緒にいく人、
などがいれば、
これは同一人物にまとめることが出来る。
それで設定が変わってしまうって?
構わん。
優先すべきはストーリーであり、設定ではない。
設定原理主義者は死ね。
それはストーリーを詰まらなくするだろう。
面白いストーリーの為に最適な設定があるべきであり、
設定を見せるためにストーリーがあるのではない。
(後者の例は、進研ゼミの漫画。
これはたとえば「夏期講習がある」という設定の為に、
ストーリーもののふりをしているだけだ。
ストーリーの為に設定があるわけではない。
これは広告によく見られる、詰まらないストーリーの典型である。
設定ではなく、ストーリーがメインに見えなければならない)
ダメな例を挙げよう。
「スパイダーマン3」である。
「主人公の敵対者、悪の怪人」という役割の人が、
この映画には三人もいる。
サンドマン、ベノム、ゴブリンJr.だ。
三人も必要だったか。
一人で良かったんじゃないか。
サンドマンには「叔父を殺した男。スパイダーマンになった切っ掛け」
というサブストーリーがあったので、
三部作を締めるには、サンドマンが敵に相応しい。
ところが何をトチ狂ったか、
敵という役割を、さらに二人もこの映画はぶっこんできた。
ゴブリンJr.は、「主人公の親友なのに父の仇」という複雑なサブストーリーがあり、
かつ前作のヒキは、スパイダーマンが父の仇と知った所で終わっている。
ということは、
この映画は、
ゴブリンJr.覚醒からはじめてサンドマンをラスボスにするか、
サンドマンからはじめてゴブリンJr.をラスボスにするかの、
二択しかないはずだ。
そこにベノムを入れ込み、かつラスボスにする意味が分からない。
ベノムは原作の最大の敵らしく、三部作で締めるならば、
ベノムを入れたいという気持ちも分かる。
北斗でいえばラオウがいない北斗なんてあり得ない。
ところがだ。
マーベルスタジオは、進研ゼミと同じ間違いを犯した。
ストーリーより設定を優先したことである。
ベノムを敵にするならば、
サンドマンとゴブリンJr.をやめるべきだった。
もし「叔父を殺した男」のサブストーリーを生かすならば、
その男がベノム化すれば良かったのである。
それでも、「親友が敵」というゴブリンJr.の役割は背負えないので、
前半の焦点として出場させざるを得なかったかも知れない。
(あり得るのは、正義に転向しての共闘だろうね。
そうすれば綺麗に締まったはずだ)
このように、
「似たような役割をする人物を一人に集約する」原則を使うことで、
登場人物は減らすことが出来る。
減らすと何がいいかというと、
残りをたっぷり、深く描けるのだ。
それは結局、濃くなるのである。
もっとも、濃く描くだけの実力がないせいで、
いたずらに人物を増やし、
一見複雑に見えて、浅いだけの物語も沢山ある。
もし登場人物を減らして不安になるなら、
あなたに濃く深く描く実力が、
ない可能性が高い。
さて、現行ドラマをこの観点から批判しておこう。
「IQ246」第一話をとりあげる。
(TBS公式サイトで、次の日曜までは見れる)
以下ネタバレ。
同じ役割をする人物が沢山いる。
これはリストラ対象である。
警察のコンビ(英語言うな)と、
土屋太凰、どちらかは要らない。
「視聴者の代わりに、変人の主人公を見る」役割で同じで、
「警察サイドから、変人の主人公を見る」役割も同じだからだ。
土屋は婦警出身という設定だが、
新人刑事という設定に変更するだけで、
都合二人、登場人物を削れることになる。
(お目付け役になった経緯は、
ジャギに発砲したからではなく、
カツ丼を頼みすぎたから、みたいなキャラを生かしたものにするべき)
また、
ディーンの役と土屋の役も、
どちらかを削るべきだ。
「主人公とのバディ」という役割が、被るからである。
お屋敷はディーン、現場は土屋、みたいに割り振るべきであり、
執事役にそこまで力点を置かなくてよい。
お目付けはあくまで土屋に絞るべきだ。
勿論、織田土屋コンビに、ディーンという不確定要素を入れたくなるのは、
キャスティングとしては理解しやすい。
ならば、中谷美紀の役をディーンにやらせればいい。
織田土屋ディーンか、織田土屋中谷か、
という布陣が、メインの三角形になればいいはずである。
要するに、このドラマは人が多すぎるのだ。
キャスティング事情が透けて見えてしまうのである。
もっともこの脚本家では、
あっさい話しか書けず、
人物を減らしたところで深く濃い話は書けなさそうだが。
たかが10話のドラマに3人がかりの脚本家体制は、
いかがなものかね。
キャスティング企画先行で、
それをまとめにかかるストーリー作りが、
困難になっている証拠である。
もう一度言う。
ストーリーに設定を隷属させよ。
設定にストーリーを隷属させるのは、実力不足である。
キャスティングや企画先行というのは、
設定にストーリーを隷属させる行為だ。
ドラマのTBS?なんの冗談だい。
織田裕二は面白い役者である。
出来上がった脚本が詰まらないから、
設定を変える(キャラ)ことで、
これに対応したのだ。
つまり、あの変キャラは、彼なりの脚本NGの証拠である。
ストーリーに設定を隷属させることを、良く知っている。
あと、どうしてCMがドラマに出てくると、
あんな詰まらないCMになるんだろうね。
たて読みって。
2016年10月19日
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