2016年10月19日

似たような役割をするキャラクターは、一人に出来る

複雑になって詰まらなくなった脚本は、
人物を減らすことでシンプルに、力強くなることがある。

人物を減らすというのは、よくあるリライトの方法論だ。
しかし、何が要らない人物か見極めるのは、
慣れていないと難しい。

コツは、良く言われることだが、
「似たような役割をする人物を一人に集約する」
ことである。


たとえば、
「主人公を導く」役割の人物が、
二人も三人もいるのなら、
それは一人に出来る。

Aという世界の案内人、
Bという原理の指導者、
Cという世界へ一緒にいく人、
などがいれば、
これは同一人物にまとめることが出来る。

それで設定が変わってしまうって?
構わん。

優先すべきはストーリーであり、設定ではない。
設定原理主義者は死ね。
それはストーリーを詰まらなくするだろう。

面白いストーリーの為に最適な設定があるべきであり、
設定を見せるためにストーリーがあるのではない。
(後者の例は、進研ゼミの漫画。
これはたとえば「夏期講習がある」という設定の為に、
ストーリーもののふりをしているだけだ。
ストーリーの為に設定があるわけではない。
これは広告によく見られる、詰まらないストーリーの典型である。
設定ではなく、ストーリーがメインに見えなければならない)


ダメな例を挙げよう。
「スパイダーマン3」である。

「主人公の敵対者、悪の怪人」という役割の人が、
この映画には三人もいる。
サンドマン、ベノム、ゴブリンJr.だ。
三人も必要だったか。
一人で良かったんじゃないか。

サンドマンには「叔父を殺した男。スパイダーマンになった切っ掛け」
というサブストーリーがあったので、
三部作を締めるには、サンドマンが敵に相応しい。

ところが何をトチ狂ったか、
敵という役割を、さらに二人もこの映画はぶっこんできた。
ゴブリンJr.は、「主人公の親友なのに父の仇」という複雑なサブストーリーがあり、
かつ前作のヒキは、スパイダーマンが父の仇と知った所で終わっている。

ということは、
この映画は、
ゴブリンJr.覚醒からはじめてサンドマンをラスボスにするか、
サンドマンからはじめてゴブリンJr.をラスボスにするかの、
二択しかないはずだ。
そこにベノムを入れ込み、かつラスボスにする意味が分からない。

ベノムは原作の最大の敵らしく、三部作で締めるならば、
ベノムを入れたいという気持ちも分かる。
北斗でいえばラオウがいない北斗なんてあり得ない。
ところがだ。
マーベルスタジオは、進研ゼミと同じ間違いを犯した。
ストーリーより設定を優先したことである。

ベノムを敵にするならば、
サンドマンとゴブリンJr.をやめるべきだった。

もし「叔父を殺した男」のサブストーリーを生かすならば、
その男がベノム化すれば良かったのである。

それでも、「親友が敵」というゴブリンJr.の役割は背負えないので、
前半の焦点として出場させざるを得なかったかも知れない。
(あり得るのは、正義に転向しての共闘だろうね。
そうすれば綺麗に締まったはずだ)


このように、
「似たような役割をする人物を一人に集約する」原則を使うことで、
登場人物は減らすことが出来る。
減らすと何がいいかというと、
残りをたっぷり、深く描けるのだ。
それは結局、濃くなるのである。

もっとも、濃く描くだけの実力がないせいで、
いたずらに人物を増やし、
一見複雑に見えて、浅いだけの物語も沢山ある。
もし登場人物を減らして不安になるなら、
あなたに濃く深く描く実力が、
ない可能性が高い。



さて、現行ドラマをこの観点から批判しておこう。
「IQ246」第一話をとりあげる。
(TBS公式サイトで、次の日曜までは見れる)


以下ネタバレ。



同じ役割をする人物が沢山いる。
これはリストラ対象である。

警察のコンビ(英語言うな)と、
土屋太凰、どちらかは要らない。
「視聴者の代わりに、変人の主人公を見る」役割で同じで、
「警察サイドから、変人の主人公を見る」役割も同じだからだ。

土屋は婦警出身という設定だが、
新人刑事という設定に変更するだけで、
都合二人、登場人物を削れることになる。
(お目付け役になった経緯は、
ジャギに発砲したからではなく、
カツ丼を頼みすぎたから、みたいなキャラを生かしたものにするべき)

また、
ディーンの役と土屋の役も、
どちらかを削るべきだ。
「主人公とのバディ」という役割が、被るからである。
お屋敷はディーン、現場は土屋、みたいに割り振るべきであり、
執事役にそこまで力点を置かなくてよい。
お目付けはあくまで土屋に絞るべきだ。

勿論、織田土屋コンビに、ディーンという不確定要素を入れたくなるのは、
キャスティングとしては理解しやすい。
ならば、中谷美紀の役をディーンにやらせればいい。

織田土屋ディーンか、織田土屋中谷か、
という布陣が、メインの三角形になればいいはずである。


要するに、このドラマは人が多すぎるのだ。
キャスティング事情が透けて見えてしまうのである。
もっともこの脚本家では、
あっさい話しか書けず、
人物を減らしたところで深く濃い話は書けなさそうだが。

たかが10話のドラマに3人がかりの脚本家体制は、
いかがなものかね。
キャスティング企画先行で、
それをまとめにかかるストーリー作りが、
困難になっている証拠である。


もう一度言う。
ストーリーに設定を隷属させよ。
設定にストーリーを隷属させるのは、実力不足である。

キャスティングや企画先行というのは、
設定にストーリーを隷属させる行為だ。

ドラマのTBS?なんの冗談だい。



織田裕二は面白い役者である。
出来上がった脚本が詰まらないから、
設定を変える(キャラ)ことで、
これに対応したのだ。
つまり、あの変キャラは、彼なりの脚本NGの証拠である。
ストーリーに設定を隷属させることを、良く知っている。

あと、どうしてCMがドラマに出てくると、
あんな詰まらないCMになるんだろうね。
たて読みって。
posted by おおおかとしひこ at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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