前記事に、格好の例があったので、
これを例に議論しよう。
東急でんきのポスターを例に、
製作委員会のシミュレーションをした記事だ。
そこではこう書いた。
>どうでもいい企業のどうでもいいポスターだから、
>全くどうでもいいのだが、
>これが今の日本映画界の製作委員会で起きていることと、
>そう変わりないと思えば、ことは深刻だ。
私たちの書く原稿は、
どうでもいい他人のどうでもいい事件とその解決過程である。
本来、どうでもいいことだ。
ところが、我が身に置き換えた瞬間、
それは深刻に、リアルに、当事者意識になる。
それが感情移入である。
それをどうやって我が身に置き換えさせるかは、
様々なやり方がある。
僕の記事では、
どうでもいい企業のどうでもいいポスターの問題が、
私たち脚本家や観客が直面する、
映画の問題と同一だ、
というレトリックで、
急に当事者意識になるのである。
どうでもいい企業の問題が、
一般化して、
自分の周囲と同一になるのである。
この一般化により、
どうでもいい他人と、
わたしが、
同一視されるのが、
感情移入の正体だ。
「この主人公は私とは何にも関係ないけれど、
この主人公が抱える問題は、
私の抱える問題と似ている
(全く違う世界なのに、性質において共通する部分がある。
同じ人間だからだろう)」
と思わせるのが最上のやり方で、
「あるあるこういうこと。わかるわー」
と共通体験による共感に訴えるのが次善で、
「この俳優(女優)好き!
話は面白くないけど、最後笑ったから満足!」
が最低であった。
「F2層がメインターゲットなので、
F2層に一番多い働く女の話を作り、
共感しやすいあるあるエピソードで楽しませ、
人気の俳優を使って感情移入させる」
などとマーケティングの人はよく言うが、
それは二番目と三番目の話しかしていない、
僕に言わせれば無知のぼんくらだ。
前記事の話に戻れば、
私たちと無関係の東急でんきのポスターの裏で起こっている問題が、
私たちの抱える問題と同じであることがわかれば、
感情移入は起こるのである。
東急の沢山のバカな役員は、
製作委員会のバカな役員と同じで、
右往左往するポスターの質は、
ガラクタみたいな邦画の質と同じで、
デザイナーの失望は、
私たち観客と脚本家の失望と同じで、
無視される結果においても、
ポスターと糞邦画は同じである。
だから私たちは、
ポスターの話を考えることで、
自分の話を考えることにもなるのである。
相似とか、類推とか呼ばれる機能である。
この話は、恐らくは脚本家だけでなく、
日本の殆どの会社で起こっている問題かも知れない。
「事件は会議室じゃなくて、現場で起きている」と、
青島も叫び、日本中がそうだと思った。
(だがそれはいまだに解決されていない)
そう思うと、さらに感情移入が進むというものだ。
(どうやって突破するかについては、
僕自身明解な解答を持ち得ていない)
同一視。
これこそが感情移入だ。
外見とか性格とかじゃない。
シチュエーションとか問題の構造とか、
思う気持ちとかが、同一なのだ。
むしろ別世界に捨象されるから、
想像の翼をはためかせるのである。
「僕の名は○○。平凡な高校生だ」?
あほか。
2016年10月20日
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