2016年10月21日

学芸会化

もしかしたら、今のテレビや映画は、
いや、今というより少し前からか、
「面白いか/面白くないか」が基準ではなく、
「好きか/好きじゃないか」が基準になっているような気がする。


好きな人が出ていれば、なんでも「いい」と言う。
好きな物を扱っていたら、なんでも「いい」と言う。

僕は舞台裏を見せることについては、
基本的に反対である。
舞台裏を目指す後輩の為にはいくらでも見せるが、
そうでない人に、舞台裏は見せたくない。
表に出たものが全てで、
そこに裏なぞない。

ところが、
好きな人が役作りをする様や、
好きな人のオフショットを眺めるための、
メイキングという名のオフショット集があったりする。
それは、基本学芸会が楽しいみたいなことである。

知り合いが出ているから見る。
我が子が出ているから見る。
好きな人が出ているから見る。
それは、全く知らない人の人生に感情移入するのではなく、
好きな人が日常とは別のことをしている所を眺めて、
「この人好きだわー」と言っているだけだ。
好きという感情は、全ての思考を停止させ、
好きじゃないという感情は、興味を減退させる。


だから、人気者たちが、
たいして面白くないものを学芸会で演じる。
好かれる為にである。


僕は、人気取りには興味がない。
それはロジックじゃなくて、天性のものだ。

面白いか面白くないかは、
ロジックで組むことが出来る。
面白いことに理由があり、
面白くないことにも理由がある。


「IQ246」での織田裕二のヘンテコキャラは、
好かれようとしてやっている演技ではない。
話をより面白くしようとしてる演技である。
キモイと嫌われるだろう。
ディーンは嫌われないだろう。好かれる為にドラマに出ている。
織田裕二は、面白くしようとしてる。
あとは脚本次第だ。
その脚本が糞なのが、問題なのだが。



好きか好きじゃないか。

ネットの流行は、好きをリンクしまくる社会を生んだ。
それは、
「好かれるものを作らなきゃ」という製作者への脅迫になっている。
「受けそう/受けなさそう」が、基準になっている。

「面白いか/面白くないか」の基準で作らない限り、
面白いものは永遠に作れない。

好きな人が面白いことをする。
好きな人が面白くないことをする。
どちらも好きと言われるなら、
どうでもいい学芸会ばかりになるのは必然だからだ。


好きじゃないジャンルを好きにさせるには、
多大な労力がかかる。
よほど一言で言える物凄い面白いもの以外は、
好きになることはないだろう。
その神の一撃を、人は毎日繰り出せるわけではない。

一言で言えない面白いものは、
こうして世に出づらくなっていると考える。
昔なら教える人や教える雑誌があり、
みんな勉強して面白さを学んだ。
そうして少しずつ好きを増やしていった。
今はその労力を皆払わなくなった。

好きじゃない人、好きじゃないジャンル、
好きかどうかもまだ分からないもやもやしたところ。
僕はそこに、新しい一言で言えない面白いものがあると思う。
面白いものは、最終的に好かれると思う。


ドラマ風魔以降、そこに挑戦する機会にずっと恵まれていない。
色々考えることがあり、学芸会でない自主制作をすることにした。
来年くらいにはどこかで御披露目したい。
posted by おおおかとしひこ at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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