あれも好き。これも入れたい。
その収集は、静止画的なコレクションにすぎず、
動的なストーリーラインを生まない。
なぜなら、
ストーリーとは、異質なもののぶつかり合いだからである。
これをコンフリクトという。
異質なものがどうしても呉越同舟にならざるを得ず、
喧嘩したり、先を争ったり、騙したり、
揉めたり、主導権争いをしたり、裏切ったり、
説得したり、嘘をついたり、腹を割ったり、
仲良くなったり、殺し合いしたり、第三の解決策へたどり着くことを、
ストーリーのコンフリクト(の軌跡)という。
コンフリクトのない話は、
ストーリーではない。
「好き」「私も」はストーリーではない。
「好き」「虫酸が走るわ」が、ストーリーになる可能性がある。
衝突や異質や矛盾があるからである。
この初期状態から、上のようなことをして、
別の定常状態へ至ること、
その軌跡をストーリーという。
さて本題。
つまり、自分の好きなものだけを集めても、ストーリーではない。
虫酸が走らないからだ。
あなたが好きなものと、そうでないもの(極論すれば嫌いなもの)が、
衝突や矛盾を起こしたり、異質であることが、
ストーリーの種になるからである。
正義と悪の話という極端な例だと、
あなたは正義か悪がどちらかが好きで、
どちらかを嫌いである必要がある。
両方好きだとストーリーにならないので、
そういう人は正義と悪の話は書かないほうがいい。
対立せず、馴れ合いにしかならないからだ。
コンフリクトの反対は、馴れ合いとかご都合主義だと僕は思う。
異なる別の原理が出会い、
相容れない、ということでいえば、
別に正義と悪に限らなくていい。
人は全員が異なる。
人と人が出会えば、必ず異なる原理があり、
そこがコンフリクトの原因になるだろう。
小さな生活習慣でもいいし、大きな人生観でもいい。
目的の相違でもいい。
男と女は喧嘩するように出来ているし、
家族も上司も反発する時間の方が長い。
それらが
「好き」「私も」になったり、
「こうなったら殺すしかない」になったり、
全く別の落とし所に落ち着くのが、
ストーリーである。
あなたは、
好きなものばかりを集めていないか?
好きなものに、嫌いなものをぶつけてみよう。
そこで起こることは、ストーリーの候補になる。
そしてそれはどうなり、最終的にはどうなって終わるのか。
それを面白おかしく、興味深く、夢中になるように、
書けばよい。
2016年10月21日
この記事へのトラックバック
はじめまして。趣味でシナリオを書いている者です。
1年ほど前から先生の脚本論を気が向いた時に(すみません)拝読しておりましたが、今回初めてコメントさせていただきました。
ドラマツルギーに対する鋭い視点と強い情熱に、いつも大いに刺激されております。
好きなものに嫌いなものをぶつける、つまり何らかの対立を描かなければストーリーは成り立たない、という今回の記事の主旨は、ドラマを描く上で本当に基本的で最も重要なことだと思います。
ただ私見としては、この「対立」を文字通りの意味に捉え、単純な「味方vs敵」の構図に落とし込んでしまって、作品を異様に薄っぺらいものにしてしまう作者も多いです。
つまり「味方側はみんないい奴で主人公を常に全肯定」、「敵側はみんな悪い奴で主人公たちに全否定される」という、
「作者の好きな物・人 vs 作者の嫌いな物・人」という一枚岩同士の対立になってしまうと、単なる勧善懲悪以上の深みや面白さは全くない、薄ら寒い作品になると思うのです。
最近見た例だと、朝ドラ『とと姉ちゃん』の商品試験編でしょうか。
「敵側」の家電メーカーは嫌味な奴らとしか描かれないし、そいつらからの妨害を受けた「味方側」の雑誌編集者たちも、徹底抗戦を訴える主人公をほぼ全肯定。離反する編集者もいましたが、対立は一切描かれず、非常にさらっとドロップアウトしていきました。これでは、何の成長もカタルシスもありません。
目的や考え方の対立は、味方vs敵という主軸の形成に当然必要ですが、むしろ味方側集団の中にこそ、「どっちの言い分も分かる」濃厚な対立が必要なのではないでしょうか。
異なる思想や目的を持った人間が対立し、次第に理解し合って落とし所を見つけ、共通の障害や敵に立ち向かっていく……というのが、私の思う理想の対立関係です。
(この辺が上手いなと思ったのは、007の『スカイフォール』です。ボンドシリーズでは一番ドラマがよく出来てると思います)
もしよろしければ、前述のような薄っぺらく一枚岩的な「対立」について、先生のお考えを伺えたらなと思います。
乱文にて失礼いたしました。次回のトピックも心待ちにしております。
僕はなるべく「対立」という言葉を避けるようにしてます。
日本人は表立った対立を避ける民族ですから。
食い違いとか、違和感とか、立場の相違とか、
もっと些末なことから最終的に対立や衝突に至ることを、
やるべきだと考えます。
ハリウッドだと、肌の色も宗教も住居も違うし、
「クラス」が目に見えやすい。
対立構造を見た目でつくりやすいですね。
さて、「味方が一枚岩」なんて、
人の集団を描くのに未熟としか言いようがない。
一枚岩の家族、一枚岩の会社、一枚岩の仲間。
そんなの普段はないですよね。
皆がまとまるときは「非常時か、敵が現れたとき」ぐらいしかなくて、
もっと普段はなにかしらぎすぎすしてるものでしょう。
ハリウッドの脚本論には、
「全てのシーンにはコンフリクトがあらねばならない。
また、その小コンフリクトが小解消してシーンは終わること」
と教えるものすらあります。
味方だろうが敵だろうが、
常に誰かしらが対立したり食い違ったりして、
その結果、小さく和解したり決裂したりしているわけですな。
(恋人と同棲するとき、毎日少しずつケンカしながら、
ルールを決めていくシーンなんてよくありますね)
日本人はそこまでハイカロリーじゃないと思いますが。
朝ドラは見てないのでなんともですが、
単純すぎる対立は見てて飽きますねえ。
脚本家や監督のデフォルメの度合い、
人間観の浅い深いに比例する現象のような気がします。
(シンプルで強いのが面白い時もあるので、
一概に対立構造のみを取り出しても議論できないですけど)