2016年10月21日

好きなものだけを集めても、ストーリーは出来ない

あれも好き。これも入れたい。
その収集は、静止画的なコレクションにすぎず、
動的なストーリーラインを生まない。


なぜなら、
ストーリーとは、異質なもののぶつかり合いだからである。
これをコンフリクトという。
異質なものがどうしても呉越同舟にならざるを得ず、
喧嘩したり、先を争ったり、騙したり、
揉めたり、主導権争いをしたり、裏切ったり、
説得したり、嘘をついたり、腹を割ったり、
仲良くなったり、殺し合いしたり、第三の解決策へたどり着くことを、
ストーリーのコンフリクト(の軌跡)という。

コンフリクトのない話は、
ストーリーではない。
「好き」「私も」はストーリーではない。
「好き」「虫酸が走るわ」が、ストーリーになる可能性がある。
衝突や異質や矛盾があるからである。
この初期状態から、上のようなことをして、
別の定常状態へ至ること、
その軌跡をストーリーという。


さて本題。
つまり、自分の好きなものだけを集めても、ストーリーではない。
虫酸が走らないからだ。

あなたが好きなものと、そうでないもの(極論すれば嫌いなもの)が、
衝突や矛盾を起こしたり、異質であることが、
ストーリーの種になるからである。

正義と悪の話という極端な例だと、
あなたは正義か悪がどちらかが好きで、
どちらかを嫌いである必要がある。
両方好きだとストーリーにならないので、
そういう人は正義と悪の話は書かないほうがいい。
対立せず、馴れ合いにしかならないからだ。
コンフリクトの反対は、馴れ合いとかご都合主義だと僕は思う。

異なる別の原理が出会い、
相容れない、ということでいえば、
別に正義と悪に限らなくていい。
人は全員が異なる。
人と人が出会えば、必ず異なる原理があり、
そこがコンフリクトの原因になるだろう。

小さな生活習慣でもいいし、大きな人生観でもいい。
目的の相違でもいい。
男と女は喧嘩するように出来ているし、
家族も上司も反発する時間の方が長い。

それらが
「好き」「私も」になったり、
「こうなったら殺すしかない」になったり、
全く別の落とし所に落ち着くのが、
ストーリーである。


あなたは、
好きなものばかりを集めていないか?
好きなものに、嫌いなものをぶつけてみよう。
そこで起こることは、ストーリーの候補になる。
そしてそれはどうなり、最終的にはどうなって終わるのか。
それを面白おかしく、興味深く、夢中になるように、
書けばよい。
posted by おおおかとしひこ at 14:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大岡先生

はじめまして。趣味でシナリオを書いている者です。
1年ほど前から先生の脚本論を気が向いた時に(すみません)拝読しておりましたが、今回初めてコメントさせていただきました。
ドラマツルギーに対する鋭い視点と強い情熱に、いつも大いに刺激されております。

好きなものに嫌いなものをぶつける、つまり何らかの対立を描かなければストーリーは成り立たない、という今回の記事の主旨は、ドラマを描く上で本当に基本的で最も重要なことだと思います。
ただ私見としては、この「対立」を文字通りの意味に捉え、単純な「味方vs敵」の構図に落とし込んでしまって、作品を異様に薄っぺらいものにしてしまう作者も多いです。

つまり「味方側はみんないい奴で主人公を常に全肯定」、「敵側はみんな悪い奴で主人公たちに全否定される」という、
「作者の好きな物・人 vs 作者の嫌いな物・人」という一枚岩同士の対立になってしまうと、単なる勧善懲悪以上の深みや面白さは全くない、薄ら寒い作品になると思うのです。

最近見た例だと、朝ドラ『とと姉ちゃん』の商品試験編でしょうか。
「敵側」の家電メーカーは嫌味な奴らとしか描かれないし、そいつらからの妨害を受けた「味方側」の雑誌編集者たちも、徹底抗戦を訴える主人公をほぼ全肯定。離反する編集者もいましたが、対立は一切描かれず、非常にさらっとドロップアウトしていきました。これでは、何の成長もカタルシスもありません。

目的や考え方の対立は、味方vs敵という主軸の形成に当然必要ですが、むしろ味方側集団の中にこそ、「どっちの言い分も分かる」濃厚な対立が必要なのではないでしょうか。
異なる思想や目的を持った人間が対立し、次第に理解し合って落とし所を見つけ、共通の障害や敵に立ち向かっていく……というのが、私の思う理想の対立関係です。

(この辺が上手いなと思ったのは、007の『スカイフォール』です。ボンドシリーズでは一番ドラマがよく出来てると思います)

もしよろしければ、前述のような薄っぺらく一枚岩的な「対立」について、先生のお考えを伺えたらなと思います。
乱文にて失礼いたしました。次回のトピックも心待ちにしております。
Posted by 浦塩 at 2016年10月21日 16:07
浦塩様コメントありがとうございます。

僕はなるべく「対立」という言葉を避けるようにしてます。
日本人は表立った対立を避ける民族ですから。
食い違いとか、違和感とか、立場の相違とか、
もっと些末なことから最終的に対立や衝突に至ることを、
やるべきだと考えます。

ハリウッドだと、肌の色も宗教も住居も違うし、
「クラス」が目に見えやすい。
対立構造を見た目でつくりやすいですね。

さて、「味方が一枚岩」なんて、
人の集団を描くのに未熟としか言いようがない。
一枚岩の家族、一枚岩の会社、一枚岩の仲間。
そんなの普段はないですよね。
皆がまとまるときは「非常時か、敵が現れたとき」ぐらいしかなくて、
もっと普段はなにかしらぎすぎすしてるものでしょう。

ハリウッドの脚本論には、
「全てのシーンにはコンフリクトがあらねばならない。
また、その小コンフリクトが小解消してシーンは終わること」
と教えるものすらあります。

味方だろうが敵だろうが、
常に誰かしらが対立したり食い違ったりして、
その結果、小さく和解したり決裂したりしているわけですな。
(恋人と同棲するとき、毎日少しずつケンカしながら、
ルールを決めていくシーンなんてよくありますね)
日本人はそこまでハイカロリーじゃないと思いますが。


朝ドラは見てないのでなんともですが、
単純すぎる対立は見てて飽きますねえ。
脚本家や監督のデフォルメの度合い、
人間観の浅い深いに比例する現象のような気がします。

(シンプルで強いのが面白い時もあるので、
一概に対立構造のみを取り出しても議論できないですけど)
Posted by おおおかとしひこ at 2016年10月21日 17:59
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