質問への回答としてこの話をしたけれど、
興味深い話題なのでさらに広げておく。
映像では、1秒のことは1秒で表現される。
音楽の再生も、1秒で演奏されたものは1秒で再生される。
(レコード世代なら45回転とか覚えてるよね)
一方、小説や漫画などの紙媒体では、
1秒のことを何文字(コマ)で表現するか、
決まっていない。
映像には、他に特殊な表現はある。
たとえばスローモーションだ。
1秒のことを3秒に引き伸ばす(3倍のスローモーション)、
1秒のことを10秒に引き伸ばす(10倍のスローモーション)
などである。
逆にコマ落とし(微速度撮影)もある。
1.1秒のことを1秒に縮める(コマ抜き。アクションは大抵これをやって、
キビキビした動きを作っている。ダンスとかでもやる)、
1時間のことを1秒に縮める(たとえば空に雲が飛ぶなど、
タイムラプスと呼ばれる表現がある)、
などである。
これらは、物理的にカメラで撮影する。
映画用のカメラは24コマ/秒で回っているから、
スローモーションは72コマ/秒、240コマ/秒などで回す。
逆に微速度は、22コマ/秒、1コマ/秒、などで回す。
映像は所詮連続写真だ。
パラパラマンガの、パラパラのスピードを変えるのである。
速くする、遅くする、これらを纏めて変速撮影という。
撮影には、ノーマルスピード撮影と、変速があるわけだ。
通常のストーリー進行で、
カメラスピードを変えた撮影をすることはない。
「特別な瞬間」だけが変速の対象だ。
たとえば驚いてスプーンを床に落とすのはスローモーションになるかも知れない。
美しい彼女が振り向く、誰もが恋をする瞬間はスローモーションだ。
つまり、変速撮影は強調表現である。
フラットな芝居にタッチをつけることが出来るわけである。
(ちなみに、これらの使用は監督の権限だ。
脚本家が書いてきた文脈を、
どのような映像表現を使うか、という領域だからだ。
強調すべき文脈もないのに映像的強調をするのは、
映像をオモチャにしているだけで、
文脈を表現していることにはならない)
映像表現のハイライトである、
アクションシーンでは、これらの表現は多用される。
サムペキンパー、ジョンウーはスローモーション撮影の名手だ。
僕もしょっちゅう使う。ドラマ風魔では使いまくって楽しかった。
(もっと性能のいいスローモーションカメラが良かったが、予算が…)
CMでもしょっちゅう使う。
クレラップのラストカットは大抵スローモーションだったし、
織田裕二のジャケ羽織はスローモーション中にフレアまで入れた。
スローモーション中にコマ抜き、なんて組み合わせもよくある。
(殴りかかるときスローモーション、殴る瞬間にガッとコマ抜き、
ぶっ飛ぶ瞬間はスローモーション、壁に飛ぶのはコマ抜き、
壁にぶち当たるのはスローモーション、なんて一連で使い分けたり。
これをタイムシフト編集なんて言うが、この言葉はあまり浸透していない)
1秒で1秒を表現する映像では、
そのコマ数を変速して強調表現とする。
これらは、逆に紙媒体には出来ない表現だろう。
いずれにしても脚本には、そのようなものを使いたくなる、
文脈を書くだけなのだが。
さて、もう少し巨視的に見ると、
脚本で時間をコントロール出来る。
省略によって、である。
ある時間を必要ないから飛ばして次のシーンをはじめる、
あることを伏せておく、
などが、シーンとシーンの間に可能である。
勿論、台詞や所作でも、
あることを言わない、しないことで、
表現することも出来る。
脚本では、
「…」という表現は特別な意味をもつと思う。
言葉に出来ない感情の表現、
あることを黙っている(隠している)という表現、
これ以上喋らないという拒否の表現、
とりつく島がないという諦めの表現、
緊張して喋れない二人、
など、言葉にしないことで表現を獲得する瞬間があるものだ。
これは、紙媒体では少し難しいことかも知れない。
「ブラックジャック」のラストで、
ブラックジャックが失敗したり悔しかったりしたバッドエンドで、
「…」と表現して終わる回がたまにあるけど、
それは映像表現にとても近いと思う。
時間にして数秒の「…」は、
同秒の台詞や仕草よりも、
時間単価のある表現である。
勿論、そこに効いている省略の量が、豊かな時に限るけど。
これらを嫌って、
ワンシーンワンカット、なんて逆もある。
(演劇は逆にこれしか出来ない)
24なんてリアルタイムもあった。
しかしワンシーンワンカットが示す結論は、
余程の緊張がないと、
全ての段取りが練られていない限り、
現実には退屈する瞬間がとても多いということである。
(たとえば監視カメラの映像は、
24時間一ヶ月回して、面白い瞬間、たとえば犯罪の瞬間数分を撮影出来るぐらいだろう)
紙媒体と比較してみる。
我々が映像で扱うのはこの時間というものだが、
紙媒体は最初から永遠に停止している。
だから、時間はない。
時間は受け手側がコントロールする。
速く読んだりじっくり読んだりする。
難しい理論など、多少分かりにくくても正しく書いてある方が優先だ。
あるいは飛ばし読みも出来る。
読むスピードは一定とは限らない。
紙媒体では、
紙の上で大きなこと、ざっくり言うと面積が、
強調表現である。
漫画の大ゴマや大文字、小説の詳細描写がそうだ。
ポスターは雑誌より駅張り、看板と、大きいほうが強い。
そして強調表現の前では、人は自由に自分の時間を止められる。
大きな面積が、大きな労力がかかるとは限らない。
一方映像では、強調表現にはそれなりの手間がかかる。
コストだ。
だから、コストの上限が決まる以上、
平板と強調をバランスしなければならない。
紙媒体では、面積の上限が決まるから、
全ての要素は面積比でバランスすることになるだろう。
一見同形式のシナリオに還元出来そうだけど、
出力の媒体の差がある以上、
あるものに特化したものは、あるものに対応できないと思う。
両対応するものは、特化したものより弱いと思う。
紙媒体と映像は、こうして相容れない。
小説や漫画の映画化、ドラマ化、
映画やドラマのノベライズ、漫画化は、
こうして、大成功は必ずおさめない宿命にあると僕は考えている。
大成功するのは、それぞれの特性をよく理解して、
大胆に改編したくせに魂を同一化したものだけだと考える。
2016年10月22日
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