と、またラディカルに言ってみる。
以前議論した続きだ。
好きなものばかりを集めても、ドラマは出来ない。
ところが女という生き物は、好きなものばかりを並べたがる生き物だ。
極論する。
女は好きなものにしか興味がない。
女が好きな男に見せる態度と、
好きじゃない男に見せる態度の落差を見たことがあるだろう。
女は我々男より、
好きと嫌いの落差が激しい生き物だ。
我々男は、好き嫌いを判断の最優先にしない。
女は、好きと嫌いの落差が我々より激しく、
かつ、好き嫌いを判断の最優先にする。
ということは、
ドラマや映画が、好きで満ちていないと満足しない。
全尺好きな時間であるのが満点で、
嫌いな時間があれば減点されていく。
さて、ストーリーというものは、
異質なものの対峙が本質である。
コンフリクトなきところにストーリーは存在しない。
好きなものだけを並べたがる女からすれば、
好きでないものの存在は不快である。
嫌いなものへの嫌い方は、男の数倍である。
(男は好き嫌いに対して、女より感性が鈍いとも言える。
それは家の外で戦う為に必要な感覚であり、
家のなかを好きで満ちさせる女とは別の感性である)
従って、
女の喜ぶドラマや映画は、
自然と、異質なもののコンフリクトのないものになる。
似たような者のイチャコラだけが、
彼女たちの喜びだ。
そこに喧嘩や殺し合いはない。
嫌いなものは並べたくないからである。
「ホラーは怖いから見ない」なんて女を、
我々男は一生理解できない。
逆に男の喜ぶ物語は、
世界をガツンと切り裂き、ひっくり返すものである。
それは異質な原理のぶつかり合いから生まれる。
一方が他方を虐殺、否定しあう。
好きとか嫌いとかの次元とは別の、
異質なもののコンフリクト、
陰陽のドラマティックな変化、たとえば大逆転が好みである。
ドラマや映画がダメになったのは、
女を財布に狙ってからだ。
女は好き嫌いの落差が我々男より大きい。
好きなものに金を惜しまない。
すなわち太い客である。
女が好きな俳優を出し、
女が嫌いな女を排除し、
異質なものの対峙や衝突を、
嫌いなものを排除した、好きなもの同士のものでやる。
すなわち、茶番である。
女を財布に狙うと、
好きなもの同士が戯れる、茶番しか出来上がらないのだ。
ここで言うところの、女、男、というのは、
個人に当てはまるかどうかではなく、
集団としての女の振る舞い、
集団としての男の振る舞いについて述べている。
あなたに当てはまるから成立する、
あなたに当てはまっていないから成立しない、
という訳ではなく、
集団としての男女に有意差がある、という話である。
僕は個人としての女が好きだし、
個人として嫌いな男もいる。
集団としての女の性質を持つ個人としての男もいるし、
集団としての男の性質を持つ個人としての女もいる。
個別の例外はおいといて、
集団としての女と男という、有意差を持つふたつの振る舞いの話をしている。
さて。
ドラマツルギーとはコンフリクトのことである。
女は好きなものを並べたがる。
そして、商売は女を狙う。
この前提から導き出される結論は、
ドラマツルギーの崩壊、茶番化である。
だから、最近のドラマや映画は、詰まらない。
というラディカルな議論であった。
大きくはそうだとしても、
個別の戦場で勝ちに行くことは、全然可能だ。
ビッグバジェットの公共工事をしなければいい。
日本人は集団としては無能だけど、
個人としては優秀だと思うからである。
ただ、大きな流れとしてはこういうことがある、
と意識しておかないと、
ダメな流れに巻き込まれ、流され、
詰まらないドラマツルギーを書かされる羽目になることは明らかである。
あなたは、その安易な現状に逆らい、
集団としての男女ではなく、
個人としての人に、響くドラマツルギーを産み出さなければならないのだ。
受けるかどうかを考えるな。
女に好かれるかどうかしか基準がなくなる。
面白いかどうかを考えるべきだ。
(そのあとで、プロフェッショナル的に、
受けるシュガーコートを被せればよい)
2016年10月22日
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