2016年10月22日

ドラマや映画をダメにしたのは女だ

と、またラディカルに言ってみる。
以前議論した続きだ。
好きなものばかりを集めても、ドラマは出来ない。
ところが女という生き物は、好きなものばかりを並べたがる生き物だ。


極論する。

女は好きなものにしか興味がない。
女が好きな男に見せる態度と、
好きじゃない男に見せる態度の落差を見たことがあるだろう。
女は我々男より、
好きと嫌いの落差が激しい生き物だ。

我々男は、好き嫌いを判断の最優先にしない。
女は、好きと嫌いの落差が我々より激しく、
かつ、好き嫌いを判断の最優先にする。

ということは、
ドラマや映画が、好きで満ちていないと満足しない。
全尺好きな時間であるのが満点で、
嫌いな時間があれば減点されていく。


さて、ストーリーというものは、
異質なものの対峙が本質である。
コンフリクトなきところにストーリーは存在しない。

好きなものだけを並べたがる女からすれば、
好きでないものの存在は不快である。
嫌いなものへの嫌い方は、男の数倍である。
(男は好き嫌いに対して、女より感性が鈍いとも言える。
それは家の外で戦う為に必要な感覚であり、
家のなかを好きで満ちさせる女とは別の感性である)

従って、
女の喜ぶドラマや映画は、
自然と、異質なもののコンフリクトのないものになる。

似たような者のイチャコラだけが、
彼女たちの喜びだ。
そこに喧嘩や殺し合いはない。
嫌いなものは並べたくないからである。

「ホラーは怖いから見ない」なんて女を、
我々男は一生理解できない。


逆に男の喜ぶ物語は、
世界をガツンと切り裂き、ひっくり返すものである。
それは異質な原理のぶつかり合いから生まれる。
一方が他方を虐殺、否定しあう。
好きとか嫌いとかの次元とは別の、
異質なもののコンフリクト、
陰陽のドラマティックな変化、たとえば大逆転が好みである。


ドラマや映画がダメになったのは、
女を財布に狙ってからだ。

女は好き嫌いの落差が我々男より大きい。
好きなものに金を惜しまない。
すなわち太い客である。
女が好きな俳優を出し、
女が嫌いな女を排除し、
異質なものの対峙や衝突を、
嫌いなものを排除した、好きなもの同士のものでやる。

すなわち、茶番である。

女を財布に狙うと、
好きなもの同士が戯れる、茶番しか出来上がらないのだ。


ここで言うところの、女、男、というのは、
個人に当てはまるかどうかではなく、
集団としての女の振る舞い、
集団としての男の振る舞いについて述べている。

あなたに当てはまるから成立する、
あなたに当てはまっていないから成立しない、
という訳ではなく、
集団としての男女に有意差がある、という話である。

僕は個人としての女が好きだし、
個人として嫌いな男もいる。
集団としての女の性質を持つ個人としての男もいるし、
集団としての男の性質を持つ個人としての女もいる。
個別の例外はおいといて、
集団としての女と男という、有意差を持つふたつの振る舞いの話をしている。


さて。

ドラマツルギーとはコンフリクトのことである。
女は好きなものを並べたがる。
そして、商売は女を狙う。

この前提から導き出される結論は、
ドラマツルギーの崩壊、茶番化である。

だから、最近のドラマや映画は、詰まらない。
というラディカルな議論であった。



大きくはそうだとしても、
個別の戦場で勝ちに行くことは、全然可能だ。

ビッグバジェットの公共工事をしなければいい。
日本人は集団としては無能だけど、
個人としては優秀だと思うからである。

ただ、大きな流れとしてはこういうことがある、
と意識しておかないと、
ダメな流れに巻き込まれ、流され、
詰まらないドラマツルギーを書かされる羽目になることは明らかである。

あなたは、その安易な現状に逆らい、
集団としての男女ではなく、
個人としての人に、響くドラマツルギーを産み出さなければならないのだ。


受けるかどうかを考えるな。
女に好かれるかどうかしか基準がなくなる。
面白いかどうかを考えるべきだ。

(そのあとで、プロフェッショナル的に、
受けるシュガーコートを被せればよい)
posted by おおおかとしひこ at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック