短編と長編の違いは何か。
それはコンフリクトがひとつか、沢山かの差だ。
物語には様々な問題がふってわく。
それらが全て解決するまでがおはなしというものだ。
問題を解決しようとするとき、
その目的と矛盾したり競合したりする人が障害になる。
それもひとつの問題だ。
これをコンフリクトという。
短編の場合、
コンフリクトは比較的少ない。
大抵ひとつだ。
それを乗り越える、解消するまでを描くと、
沢山あると時間が足りなくなるからである。
また、様々な複雑な問題を、
ひとつの角度から鮮やかに切り取ることが短編だから、
ひとつに絞り、それで全てを象徴した方が強い短編になる。
長編は、
コンフリクトが沢山ある。
それは、関わる人が増えるような、
大規模で時間のかかる問題を扱うからだ。
コンフリクトは、人対人で定義されるか?
僕は、それ以下の単位があると考える。
人対人だとしても、
複数のコンフリクトがあっていいと考える。
ある二人が、
趣味は同じだけど、微妙に見ているところが違ったり、
食べ物の好みが違ったり、
同じ部署だが仕事観は別々だったり、
などの、
同じ/違う要素が複数あり得るからである。
三人集まればその要素はさらに複雑になるだろう。
ただ、全てを解消しなければならない訳ではない。
今問題になっていること(焦点)に対して、
そのコンフリクトが邪魔をしていれば、
それは解決すべきサブ問題になるだろうからだ。
三人の人生観が異なることで、
今火急の問題について、やり方や計画や目的が異なれば、
たとえ味方同士でもコンフリクトを起こすことがあるだろう。
家族や仲間を舞台にした話は、
揉めてばかりだ。
それは必ず複数の複雑なコンフリクトがあり、
それを解消するまでのお話になる。
大抵は和解エンドだ。
あるいは、
人物のなかにもコンフリクトはある。
勇気と臆病、
どちらを選択するべきか、
などである。
内的なコンフリクト(衝突)だから、
これを日本語で葛藤と呼ぶ。
(コンフリクトを葛藤と訳すのは誤訳だと、
以前に議論した。ここでは葛藤は内的な矛盾に、
コンフリクトは人と人の対立にそれぞれ使っている)
勿論、心の声は三人称表現では聞こえないので、
その詳しい内容を推し量ることは出来ない。
状況や表情や行動から推し量るか、
彼が独り言を言って我々に聞こえさせるしか、
表現手段がない。
(この意味で、葛藤は三人称表現と相性が悪い。
葛藤を描くに適した表現手段は一人称である)
勿論、
たとえば学校に行こうとするが校門で引き返すとか、
彼女に声をかけようとするが出来ないとか、
そのような表現で葛藤を描くことは可能だ。
長編には、いくつコンフリクトがあるべきか、
僕はその答えを持っていない。
単純な図式にして、分かりやすくするが、味気ないことと、
複雑にして、味わい深くなるが、ややこしくなることの、
トレードオフではないだろうか。
人間関係は複雑である。
その複雑さは、違うことによるコンフリクトで、
映画内では表現可能である。
コンフリクトを沢山書こう。
それは、人と人の集団を深く書こうとすればするほど、
増えてくるだろう。
(ドラマ風魔の中で、どれほどのコンフリクトがあるか、
数えるだけで大変だ。
それらがメインコンフリクト、風魔vs夜叉という大枠の中で行われているから、
分かりやすくかつ深いのである)
2016年10月23日
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