2016年10月23日

たくさんのコンフリクト

短編と長編の違いは何か。
それはコンフリクトがひとつか、沢山かの差だ。


物語には様々な問題がふってわく。
それらが全て解決するまでがおはなしというものだ。

問題を解決しようとするとき、
その目的と矛盾したり競合したりする人が障害になる。
それもひとつの問題だ。
これをコンフリクトという。

短編の場合、
コンフリクトは比較的少ない。
大抵ひとつだ。
それを乗り越える、解消するまでを描くと、
沢山あると時間が足りなくなるからである。
また、様々な複雑な問題を、
ひとつの角度から鮮やかに切り取ることが短編だから、
ひとつに絞り、それで全てを象徴した方が強い短編になる。

長編は、
コンフリクトが沢山ある。
それは、関わる人が増えるような、
大規模で時間のかかる問題を扱うからだ。

コンフリクトは、人対人で定義されるか?
僕は、それ以下の単位があると考える。

人対人だとしても、
複数のコンフリクトがあっていいと考える。

ある二人が、
趣味は同じだけど、微妙に見ているところが違ったり、
食べ物の好みが違ったり、
同じ部署だが仕事観は別々だったり、
などの、
同じ/違う要素が複数あり得るからである。

三人集まればその要素はさらに複雑になるだろう。
ただ、全てを解消しなければならない訳ではない。
今問題になっていること(焦点)に対して、
そのコンフリクトが邪魔をしていれば、
それは解決すべきサブ問題になるだろうからだ。

三人の人生観が異なることで、
今火急の問題について、やり方や計画や目的が異なれば、
たとえ味方同士でもコンフリクトを起こすことがあるだろう。

家族や仲間を舞台にした話は、
揉めてばかりだ。
それは必ず複数の複雑なコンフリクトがあり、
それを解消するまでのお話になる。
大抵は和解エンドだ。


あるいは、
人物のなかにもコンフリクトはある。
勇気と臆病、
どちらを選択するべきか、
などである。
内的なコンフリクト(衝突)だから、
これを日本語で葛藤と呼ぶ。
(コンフリクトを葛藤と訳すのは誤訳だと、
以前に議論した。ここでは葛藤は内的な矛盾に、
コンフリクトは人と人の対立にそれぞれ使っている)

勿論、心の声は三人称表現では聞こえないので、
その詳しい内容を推し量ることは出来ない。
状況や表情や行動から推し量るか、
彼が独り言を言って我々に聞こえさせるしか、
表現手段がない。
(この意味で、葛藤は三人称表現と相性が悪い。
葛藤を描くに適した表現手段は一人称である)

勿論、
たとえば学校に行こうとするが校門で引き返すとか、
彼女に声をかけようとするが出来ないとか、
そのような表現で葛藤を描くことは可能だ。



長編には、いくつコンフリクトがあるべきか、
僕はその答えを持っていない。
単純な図式にして、分かりやすくするが、味気ないことと、
複雑にして、味わい深くなるが、ややこしくなることの、
トレードオフではないだろうか。

人間関係は複雑である。
その複雑さは、違うことによるコンフリクトで、
映画内では表現可能である。


コンフリクトを沢山書こう。
それは、人と人の集団を深く書こうとすればするほど、
増えてくるだろう。
(ドラマ風魔の中で、どれほどのコンフリクトがあるか、
数えるだけで大変だ。
それらがメインコンフリクト、風魔vs夜叉という大枠の中で行われているから、
分かりやすくかつ深いのである)
posted by おおおかとしひこ at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック