2016年10月23日

自然発生と人為発生

物語が、芸術が、
どうして、どうやって生まれるかは、僕にも分からない。

だけど二種類ありそうだ。
自然発生と人為発生だ。


自然発生とは、文字通り、
閃きによって最初の核が生まれ、
順調に育ち、
いつの間にか素晴らしいものが完成していることを言う。

実際そんなことは、一生に何回もあるだろうか。

恐らく、これを幼少の頃体験した人が、
自分は作家になれるとか、絵描きになれる、
という無前提の確信を持っているのかも知れない。
(幼少の頃なので、たいした出来ではなかっただろうが)


逆に人為発生とは、
枠を決めてそこに無理矢理発生させることをいう。

映画なら、
映画会社の年間本数を決めて、
それらに予算を割り振り、
観客層や季節などを考え、
編成するのは、
人為的に年間の映画を発生させているわけだ。

こんなん出来ましたけど、
という自然発生を小屋でかけるわけではない。
そこで年間かける映画は、
全て計画的に作った映画ばかりだ。

だから、観客のマーケティング、
ターゲット観客、投資と回収の見込み、
などが、作る前から計画されている。

つまり、プロデューサーや脚本家や監督は、
その計画に沿うものを、
人為的に発生させているわけだ。

そこまで計画出産的なことでもなく、
たとえば白紙を渡して、
「一週間後に面白いものを持ってきて」
などと依頼されれば、
人為的に発生せざるを得ない。

締め切りのせいで仕事が出来る、という経験則がある。
ほっといたらダラダラやっていつまでも完成しないから、
締め切りがあると人為的にでも完成させてしまう、
という原理である。

仕事には締め切りがあり、
仕事には出力先があり、
仕事には回収がある。

だから人為発生は、その最終目的に向けて出産させられる訳だ。

大抵はその目標を下回り、
偶然その目標を上回ったものを、ヒットというだけである。


理論とか技術とかは、
つまりは人為発生を手伝うものである。
あるいは、自然発生した生まれたてのものを、
上手く成長させるものでもある。

自然発生自然成長したものは、
切ったことのないモジャモジャの髪の毛になるかも知れない。
適度にハサミを入れて整えれば、素敵な髪型になる可能性が高いわけだ。

勿論、自然発生自然成長したものが、
誰の理論も技術も越えた、
革命的に物凄いものになる可能性もあるけど、
それを評価することは、凡人には難しい。
(だから売れない。
売れるのは、今売れ線のものだからで、
それは理解できるからである)


プロフェッショナルとは、
人為発生させ、人為成長させ、人為完成させる人々のことを言う。
しかし、それだけでは、
ロボットの大量生産のように、詰まらないものになる。

本来自然発生していた芸術の、
野性的面白みが失われるからである。


人為発生を商業主義、
自然発生を芸術主義、
などと言って対比させることはよくある。

商業主義は、
売れるものを作り、売り尽くし、
売れなくなったら次の売れるものを作る。
あるいは、売れそうなものを売れていると錯覚させて、
売れているブームを作る。

何を作るべきかという議論はない。
売れるものを、のみである。

流石にそれでは先細るから、
心ある人が次に何を作るべきか、常にアンテナを張り、
深く考えていたから、
次々にヒット作が回転していたのだろう。
(日本映画で言えば90年代から00年代、
日本の漫画やアニメで言えば80から90年代)

人為発生は、今、曲がり角に来ていると僕は考えている。
しかし自然発生を待っていては、
要求する作品の量に足りない。
だから、人為発生作品で時間稼ぎをしながら、
自然発生を待っていたのが、
少し前までのような気がする。

今、テレビドラマも映画も、
そんな余裕はなくなってしまった。

若者は減った。
媚びたマーケティングが作品性をめためたにし、
観客を育てることもしなくなった。
長引く不況とネットの発達が、
草の根の細々とした活動の息の根を止めている。
雑誌はいくつなくなった?


さてこの時代。

人為発生のジャンルは大丈夫か?
「シンゴジラ」「君の名は。」がなければ、
東宝はヤバかっただろう。
東映や松竹や角川大映は息をしてるのか?
アスミックや独立プロは何をしてるのか?
久しぶりにグラスホッパが新作を作ったらしい。
シネマライズもなくなった。パルコはどうなるのか。
00年代、次世代と呼ばれた若者は、
細々と中年を終えようとしている。
行定勲や、山下敦弘の名を、地方映画祭で見て愕然とした。

自然発生を待つ、というのはパトロンがいれば可能だ。
しかし回転は無理だろう。

ということで、
人為発生の理論と技術をコンスタントにやりながら、
偶然自然発生したものを、普段の技術で上手に育てる、
という方法論が、
今のところ現実的なような気がする。



個人的なことを言うと、
この春ぐらいに自然発生したかなり面白いやつが、
商業主義的に受けない判断を半年間され続けたので、
自主製作をしてコンペに出そうなどと、
学生以来のことをやろうとしている。

商業主義は、人為発生を理解しない。
それはまだ売れていないものだからだ。
今売れているものに似ていないものは、未知数として投資しない。
(金に余裕があった頃は勿論投資していて、
沢山失敗したがわずかな成功がジャンルを広げてきたのだ)


きみはどうする。

さっさと、
人為発生させて人為的に話を作る、
理論や技術を身につけ、
沢山実戦を踏むべきだと思う。
そもそもストーリーテリングの技術を身につけるには、
才能がなければ膨大な手間がかかる。
それは一重に経験の量だと僕は考えている。
自然発生を待っていては、いつまでも「描かない漫画家」だよね。
(周防正行ってその後どうなったのかねえ)

昨日から、初めて「アオイホノオ」を読み始めた。
しみるわ。
posted by おおおかとしひこ at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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