2016年10月24日

全ての人物は、「しそう」か

物語というものは、
目的をもった行動によって骨格が記述されるのであった。
その行動の成否により状況が変わり、
最終的にはこれ以上変化しない所に落ち着いて、
話は終わるのであった。

ところで、
ということは、登場人物全員は、
自分の目的を、
「しそう」でなければならない。


何かやらかしそうな危険なやつや、
淡々と遂行しそうなやつや、
黙って成し遂げるやつや、
有言実行タイプなと、
登場人物の性格タイプによって様々だろうけれど、
どの人物も、「しそう」でなければならない。

そうでなければ、
唐突に行動することになり、
不自然だからである。

しそうもない人物がそのことをしたとしても、
意外性が必要な文脈以外では、
唐突感のほうが大きい。

その人物は、いつかそのことをしそうであること。
そんな人物たちがひしめきあっていること。
一触即発の緊張があること。
その均衡を破って、誰かが行動する。
やはり、という思い。
その時が来たか、という思い。
思ったよりタイミングが早いという思い。
などなどを抱えて、
焦点はその行動の行方にフォーカスされていくわけだ。

(しそうもない人物が何かをして、
驚く仕掛けに出来るのは、
周りがみなしそうな人物である時だけだ。
意外はいつも逆をつくことでしか作られない)


あなたの話の登場人物は、
何かをしそうな人物たちとして描かれているか?
何もしそうにない一見ボンクラでも、
実は能力を隠していて、いざというときはやる奴なのでは、
という予想すら皆はするものだ。

何かしそうな奴が、せずに終わるのを、
噛ませとか出落ちなどという。
勿論それもハズシとしてはあり得る。

しかし真ん中は、あくまでも、
何かをしそうな奴が、本当にやってしまうときの緊張感である。
posted by おおおかとしひこ at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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