2016年10月25日

飴と包装紙

中身とガワの話を、
飴とその包装紙にたとえて話してみる。


飴。
たとえばストロベリー味だとしよう。
実際にはイチゴをすりつぶして作っている訳ではないだろう。
砂糖や甘味料や色んな合成フレイバーなどを何種類も組み合わせ、
うまいこと水飴に混ぜている筈だ。
それぞれのフレイバーにも、
最初に効きやすいものや、
あとから効いてくるものがあるだろう。
それらを組み合わせて、
嘗めはじめから嘗め終わりまでの、
一種の体験を設計するわけだ。

嘗めはじめる前に、
赤い色で気を引くことも忘れてはならない。
ベタつかないコーティングもするだろう。
それが中身を邪魔するべきではない。
嘗め終わりに、
嫌な後味が引かないことも忘れてはならない。


包装紙。
飴の「体験(時間軸が必要なもの)」を、
ワンビジュアル(時間軸がなく、永遠に表示するもの)
て示さなければならない。

よくあるのは象徴や代替である。
イチゴの可愛いビジュアルで、
その体験を「イメージさせる」。
イチゴは中には入っていない。
まるで甘いイチゴのような、という直喩なわけだ。

ちなみにパッケージの法律で厳しく決められているのは、
果実の写真が使えるのは果汁30%以上、
果実を切って断面や絞り汁を示せるのは、100%のときのみ、
だそうな。

だから、それ以外の果実的イメージは、
必ずイラストになる。
フレッシュさをイメージさせるなら、
水滴で濡れている様(シズル)を描いたりする。
可愛いイラストなら、女子的なイメージだ。
小さくて原型を留めていないなら、それはそれで模様のようなものだ。
イチゴのモチーフを捨てる手もある。
ピンクや赤を多用した包装紙で、イチゴや甘いものを想像させることはよくある。
白いドット柄にしてしまえば想像は可能だ。

ブルーや黄色メインは、体験と異なるので、正しい包装紙とはいえない。
しかし、他の似たような包装紙から目立ち、
たとえ多少の嘘をついてでも、
手にとって貰えることを最重要視するやり方もある。
金色の包装紙とか、ダリのデザインしたロゴとか。
所詮包装紙だ。捨てられる運命だ。
耳目を集め、人をリーチさせれば勝ちだ。
中身にパスするのが包装紙の仕事である、
そう考える人もいる。
ここに広告の嘘と本当を織り混ぜる余地が発生するわけだ。


勿論これは、
映画の中身(ストーリーやテーマや面白さのこと)と、
映画のガワ(表面的なキャストや、画面のデザインや、
キャッチコピーに出来そうなコンセプトのこと、
あるいは、ポスタービジュアルのこと)の比喩である。

中身は時間軸を持つもののことであり、
ガワは時間軸を持たないもののことだ。
中身はムービーのことであり、
ガワはグラフィックのことだ。


プロの世界では、これらは分業制だ。
飴を開発する人と、
包装紙をデザインする人は違う。
ついでにいうと、「こういうのを開発しよう」と、
開発をはじめて大量生産に開発費を貰う人もいれば、
飴を袋づめして、現場で売る人もいる。

映画にたとえるなら、それぞれは、
脚本家と監督、
各スタッフと宣伝部、
プロデューサー、
映画館、
だ。
それぞれに必要な才覚は別のものであり、
だからこそ分業制が発達したのだと思う。

僕はコアの飴についてずっと書いてきている。
包装紙のことについてはあまり書いていない。
それは、飴が出来てから、
それに見合う包装紙を作ればいいと考えているからだ。

ところが。
飴は体験してみるまで真価は分からないから、
パッと見て良し悪しを判断できる、
包装紙だけで判断することがとても多い。

飴が良ければ包装紙も良い、という法則を信じるからである。

しかし、飴がよくとも包装紙がよくない場合
(宣伝部がボンクラな場合。自分の例を上げれば「いけちゃんとぼく」
ポスターと予告は最低の出来で、分業制ゆえに文句を言えなかった)、
包装紙がよくとも飴がダメな場合が、
世の中にはかなり沢山ある。


そして最悪なのは、
飴の味の分からない人が、
包装紙だけでそれはいいものだと判断しがちであるということ。

今の邦画は、
包装紙ばかり見る人にまみれている。
それは飴の味が分からなくなってしまったのかも知れないし、
本当に美味しい飴を食べてないから、
飴とはこんなものだと思っているのかも知れない。


さて。

ムーンシネマプロジェクトというものがある。
若手監督に映画企画を応募させ、
最終的に一本の短編映画をプロデュースする、
というプロジェクトだ。
志はとてもいいと思うのだけれど、
そのやり方についてはとても疑問だ。

何故なら、脚本で選考せず、
企画書と(まだ撮影してもいないのに)予告編をつくらせ、
それで選考するスタイルだからである。

http://mooncinemaproject.com/sp/vote2016.html

これは飴を作る人に必要な技能ではなく、
包装紙を作る人に必要な技能だ。

案の定、第一回のグランプリ作品、
「そうして私たちはプールに金魚を、」の予告が、
ポスタービジュアルは良さそうだが、
中身のなさそうなの丸出しの作品になっている。
(逆にこの包装紙に見合う中身をつくれ、
と言われたら、無理、というだろう)
女子高生たちがプールに金魚を200匹放す。
そのビジュアルは美しい。
で?

そう。その「で?」や「それから?」
に答えるのがストーリー展開である。
「結局、どうなるの?」に答えるのがストーリーである。
何もどうなろうもない、ワンビジュアルだけの、
包装紙映画であることしか、
予告編からは読み取れず残念である。

それは今回最終選考に残った4作品にも言えることだ。

脚本は多分「736」が一番面白く出来そうだけれど、
ビジュアルが他に負けすぎていて、
この勝負には負けるだろう。
エロものはうまいことやったと思いきや、男かという残念さ。
あとの二つは予告編がマックスのパターンだよなこれ。



日本はハコモノの国かも知れない。

先にハコを作っておいてビジネスをスタートさせ、
テナントをコネや金で呼んでくる方式。
呼ばれた人たちは、
そうなら最初からよんでほしいと愚痴をいい、
ハコに見合う結果はいつも出せない悪循環。


あなたは、
飴を作る人か。
包装紙を作る人か。

今の時代は両方が必要かも知れない。
分業制が機能していない気もする。
だって自主映画の頃は、全部やってたからねえ。


ここでは、相変わらず飴の練り方に特化して、 書いていきます。
posted by おおおかとしひこ at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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