2016年10月27日

デジタルは人を幸せにしない:魔女狩り養成機

中世に戻っているのか。
最近魔女狩りばかりな気がしている。

ネットの発達で、
人々が繋がったり、
情報が早く伝わるのは良いことだ。

しかし、裏を取った確かなもの以外も流布したり、
知性のある考えよりも、
集団心理に従った行動や考えが支配することが、
とても増えたのではないかと思う。


ネットは黎明期だから、
これも改善する、という楽観的見方もなくはない。

しかし、犯人を探し、それを排除するまで許さない風潮は、
この悪意の渦は、
ギロチンに歓喜する中世の愚衆と何が違うのだろう。
それぞれが思考せず、思考停止して集団の流れに乗っかる。
感情を剥き出しにして、理性を失う。
自分の周りしか見えず、時代を越えたり自他を越えた視点を見失う。
その流れに従わない者を村八分扱いするところまで、中世だ。

もともと人間という集団が、
愚衆的集団心理に従う生き物である、
というのならしょうがないのだろうか。
それを、知性によって断罪してきたのではなかったか。

また、そのような知性とは、教育という、
効率や合理化や儲けとは、
別の概念によってなされてきたはずだし、
だから聖域扱いされてきたはずだ。
公的教育ばかりではない。
世の中は対価以上のことを教える、知的ボランティア達で溢れていた。
それが、ネット時代になって、
炎上を恐れて撤退しつつある気がする。
黒死病を恐れて門戸を閉ざすヨーロッパの街のようだ。

知性や知識や理性は、たゆまざる訓練と秩序でしか身につかない。
人間は愚衆になりやすい生き物である。
このふたつを納得しない限り、
これからも炎上や犯人祭りは、続くだろう。


ところで、「不寛容」は、キリスト教が他民族を征服するときに、
問題となって生まれた概念らしい。
歴史的経緯の妥当性はおいといても、
人類は1000年以上その問題を解決していない。

不寛容は同調圧力とペアになっている、
集団意識と関係している。
すなわち、「なぜあなたは私たちと同じようにしないのか」
だ。
「私はあなたがたと違うからである」と答えると、
「では排除する」という考え方のことである。
「なるほど、仲良くなるつもりはあるか」となれるかどうかは、
その集団の質とも関係あるのだろうか。


あるいは、火付け盗賊はどの時代もなくならないと考える。
火付け盗賊を吊し上げさえすれば、
それで集団の熱は覚めるという考え方もある。
芽を摘むには、それをやるのも手かも知れない。
泥仕合覚悟だけどね。

そういえば風魔は、火付け盗賊と流言が主な仕事であったよね。
先日のサノケンパクり暴露は、
下請けや競合の告発であるという、専らの噂だ。



ネットは人々の心を集団帰属にしてしまった。
クラスタという言葉がそれを如実に示す。

近代が推してきた、近代的自我の曲がり角だろうか。
民主主義は、市民社会を緩やかな前提としていたはずだ。
中世の愚衆と哲人に逆戻りだぜ。
そういう社会は、救世主を求めるぞ。
それは安易な形であらわれる(偽キリスト)。美人や美男。
あ、もう現れてるかな?

今人類は、何周目だろう。
posted by おおおかとしひこ at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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