2016年10月28日

問題解決と共感

また暴論をしてみる。

あなたは問題が好きだろうか。
問題を前にしたとき、あなたは「こいつは解決しなければ」と思うか、
「いやだなあ」と思うか、どちらだろうか。
友達に相談されたと想定すれば答えは簡単だ。

男なら、問題解決の方法を考え、アドバイスする。
女なら、それは大変だねと共感する。



有名な、「車のバッテリーが上がって」というコピペがある。
女が「車のバッテリーが上がった」と男に電話する。
男は各箇所の点検を指示し、問題個所の発見を考えて誘導する。
しかしこれは「対女へのベストの方法」ではない。
ベストは「それは大変だね」と共感し、
彼女に解決させるのではなく、
「助けに行ってやるよ(共感の共有かつ問題解決)」であると。

これは「男の常識に女は反する」ということを実にうまくとらえた短編だ。

男女の脳差とか性差の話はとりあえず置いといて、
前回と同じように、個人ではなく、
「層として有意差のあるふたつの集団」について考える。
問題解決を考えるのは男性に多く、
共感を考えるのは女性に多い、
という統計的有意差の話であるので、
以下個人に置き換えて考えてはならない。



さて本題。

映画の脚本理論は、従来からずっと男によって考えられてきた。
男によって書かれた脚本が、男によって監督されてきた。

ということで、男が考える物語の主骨格とは、「問題と解決」である。

しかし、もし女によって映画が作られたとしたら?
おそらくだが、「問題と解決」ではなく、
「共感か共感じゃないか」が主骨格になるんじゃないか?

それは映画じゃない、と男の理論から反論することも出来るし、
それはもうひとつの映画理論である、と主張することも可能だろう。

いずれにせよ、
女は「共感か共感じゃないか」に興味があり、
男は「問題とその解決」に興味があるということだ。

Facebook、twitterなどの「いいね」ボタンは、
共感のためにある。だからSNSは女のものである。(極論)

論文、批判は、問題解決のためにある。
だから論文や批判は、男のものである。(極論)


映画に、女の原理を一義的に持ち込むべきではない、
すなわち「好きなものだけを並べる」のは映画的ストーリーではない、
という最近の僕の主張は、男の物語原理から見れば、
ということを主張しているわけだ。

一方、女から見た「好きなものばかり」というものには、
たとえば恋愛漫画や家族ものなどがある。
極端にいえば、仲の良い人々が、仲良く暮らせば、
それは彼女たちにとって心地よく共感できる世界なのである。
もっとも極端なものは、BLだ。
BLに問題解決などない。ただの性癖の確認のしあいだ。
ただそれだけで、彼女たちは脳汁が出るのだ。
我々男にとっては、些末でどうでもいいことである。
(重ねていうが、これは極論だ)


映画は、最初に問題を示さなければならない。
中途の骨格結節点で、センタークエスチョンを示すべきだ。
そしてその解決において、全体の意義を確定しなければならない。

この原則は、あくまで「男の物語論」なのかも知れないわけだ。
(女にとっての問題とは、
「共感が奪われ、共感を回復すること」かも知れない)


さて。

世の中には、男も女もいる。
層的な集団性質に属さない個人もたくさんいる。
つまり結論は、
男的な要素も、女的な要素も含むべき、
という一番難しいことになるわけだ。


「面白い/面白くない」という評価は、
「問題とその解決」を主骨格とする物語についての感想である。

つまり、自分でもその問題を頭の中で解決しようと試み、
その過程自身、その予想を上回った時などに、「面白い」と思うわけだ。

「好き/好きじゃない」という評価は、
目の前にあるすべての要素が、共感するかどうかという反応である。
9割好きでも、1割好きじゃない、とかそういうことだ。

女はホラーが嫌いだ。「恐い」からだ。
「血が出るのとか、恐いのは、好きじゃない」からだ。
男は「血が出たり、恐いのは、問題である。ではその問題を解決しよう」
と興味が出るのである。
(何度も言うが、層としての極論である)

女は、好きであれば、面白かろうが面白くなかろうがどうでもいい。
男は、面白ければ、好きであろうが好きじゃなかろうがどうでもいい。
極端には、そう考えることが出来るわけだ。


そういうわけで、
今の「女の財布を狙う」コンテンツは、
面白いものがないわけなのである。
だって「好きな人が言うことが好き」だから、
好きな人だけ集めていりゃそれでいいわけなのだ。

何度も言うが、これは極論をしているよ。


さて。

僕はこれからも面白いものを書くし、
面白いものの書き方を書いていく。
そして僕自身は好かれているわけではない。
男にとって正しいこととは、好かれることではなく、
正しいことをすることだと思う。

昨今のバズリは、好きかどうかの拡散である。
だからネットでは、評論が炎上するのかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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