リアリティーを突き詰めてしまえば、
フィクションの入る余地はなくなる。
それはとてもリアルだからだ。
つまり、リアルには夢がない。
当然のことが当然のように起こる。
偶然が左右してドラマのようになることはあるが、
ドラマのように必然があって偶然が起こるわけではない。
(ドラマでは偶然が味方するのは、必然性があるときだけだ)
つまり、リアリティーだけだと、あんまりフィクションは面白くならない。
そりゃそうだ。
フィクションとは、リアリティーの対義語のようなものだからだ。
しかしリアリティーのないフィクションは、
なかなか受け入れられない。
子供の頃はファンタジー世界であれば何でも良かったけど、
そのうち、
出来のいいファンタジーはリアリティーがある、
ということに気づいてくる。
リアリティーがあるとはどういうことかというと、
それが実在の世界の要素があり、
なんだか本物っぽく見えるということだ。
つまり、
フィクションにはリアリティーが不可欠だ。
全くの嘘は、嘘扱いされる。
「それは本当にあるかも知れない」と、
少し夢をもってもらわなければならない。
だからといってリアリティーの徹底的な考証は、
フィクションの翼を狭くするだろう。
前記事にひっかけて言えば、大人が幼児を殺してしまう。
対策がひとつだけあるとすると、
「リアリティーの中にある、嘘みたいなこと」にたどり着くことだ。
我々の先入観を覆すやつがいい。
それそういうことになってるのか、知らなかったよ、
と思わせるやつがいい。
そうすると、リアリティーの延長にあるはずのその世界が、
急に「知らない世界」になる。
そうして我々は思い出すのだ。
この世界を人類は全て知っているわけではないということを。
自分が知らない、実在のことがあるのだから、
この世界を全て知っているわけではない。
だから、そのレベルでの嘘は、
本当と見分けがつかない、
という三段論法が成立するわけだ。
「実在の、ものすごく意外なこと」が、
私たちの常識や先入観に反すれば反するほど、
それを示したあとの嘘はつきやすくなる。
あとはフィクションの出番であるわけだ。
「その不思議な扉を開けたら、異世界が広がっていた」
なんてのは、現代では嘘臭いフィクションである。
しかし、
「どう考えても一時間かかる距離を15分で歩いていた。
家で時計を見たはずなのに」
というリアリティーがあるんだかないんだか分からない、
ギリギリならばこっちに持ってこれる。
「地下鉄銀座線には使ってない秘密のホームがある」は、
意外な事実だから、
それを使って「そのホームに行く特殊列車がある」「その時刻だけ異世界の扉が開く」
は、うまくいけばフィクションになりえるわけだ。
あなたはどんな、現実での意外な事実を知っているだろうか。
それは取材からしか生まれない。
雑学だけだと誰でも知ってるからね。
昔持ってたネタは、
「心臓移植すると、提供者の記憶転移が起こることがある」というやつ。
最近研究が進んで、身体記憶が神経に残る可能性が示唆されていて、
ネタよりも現実的になってきているけど。
それが古びてしまうと、ネタとして鮮度がなくなり、
ハッタリが効かなくなる。
臓器移植での記憶転移は常識になりつつあるらしく、
症例が沢山報告されているので、
それがリアリティーレベルになっているからだ。
意外なる新規性。
それがフィクションとリアリティーの境目にいるのかもしれない。
最近、鍼灸関連で意外なネタを知り、
それは次回作のどれかに生かそうと考えている。
2016年10月31日
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