2016年10月31日

リアリティーと新規性

リアリティーを突き詰めてしまえば、
フィクションの入る余地はなくなる。
それはとてもリアルだからだ。
つまり、リアルには夢がない。

当然のことが当然のように起こる。
偶然が左右してドラマのようになることはあるが、
ドラマのように必然があって偶然が起こるわけではない。
(ドラマでは偶然が味方するのは、必然性があるときだけだ)

つまり、リアリティーだけだと、あんまりフィクションは面白くならない。



そりゃそうだ。
フィクションとは、リアリティーの対義語のようなものだからだ。

しかしリアリティーのないフィクションは、
なかなか受け入れられない。
子供の頃はファンタジー世界であれば何でも良かったけど、
そのうち、
出来のいいファンタジーはリアリティーがある、
ということに気づいてくる。
リアリティーがあるとはどういうことかというと、
それが実在の世界の要素があり、
なんだか本物っぽく見えるということだ。

つまり、
フィクションにはリアリティーが不可欠だ。
全くの嘘は、嘘扱いされる。
「それは本当にあるかも知れない」と、
少し夢をもってもらわなければならない。

だからといってリアリティーの徹底的な考証は、
フィクションの翼を狭くするだろう。
前記事にひっかけて言えば、大人が幼児を殺してしまう。


対策がひとつだけあるとすると、
「リアリティーの中にある、嘘みたいなこと」にたどり着くことだ。
我々の先入観を覆すやつがいい。
それそういうことになってるのか、知らなかったよ、
と思わせるやつがいい。

そうすると、リアリティーの延長にあるはずのその世界が、
急に「知らない世界」になる。
そうして我々は思い出すのだ。
この世界を人類は全て知っているわけではないということを。

自分が知らない、実在のことがあるのだから、
この世界を全て知っているわけではない。
だから、そのレベルでの嘘は、
本当と見分けがつかない、
という三段論法が成立するわけだ。


「実在の、ものすごく意外なこと」が、
私たちの常識や先入観に反すれば反するほど、
それを示したあとの嘘はつきやすくなる。

あとはフィクションの出番であるわけだ。


「その不思議な扉を開けたら、異世界が広がっていた」
なんてのは、現代では嘘臭いフィクションである。
しかし、
「どう考えても一時間かかる距離を15分で歩いていた。
家で時計を見たはずなのに」
というリアリティーがあるんだかないんだか分からない、
ギリギリならばこっちに持ってこれる。
「地下鉄銀座線には使ってない秘密のホームがある」は、
意外な事実だから、
それを使って「そのホームに行く特殊列車がある」「その時刻だけ異世界の扉が開く」
は、うまくいけばフィクションになりえるわけだ。


あなたはどんな、現実での意外な事実を知っているだろうか。
それは取材からしか生まれない。
雑学だけだと誰でも知ってるからね。

昔持ってたネタは、
「心臓移植すると、提供者の記憶転移が起こることがある」というやつ。
最近研究が進んで、身体記憶が神経に残る可能性が示唆されていて、
ネタよりも現実的になってきているけど。


それが古びてしまうと、ネタとして鮮度がなくなり、
ハッタリが効かなくなる。
臓器移植での記憶転移は常識になりつつあるらしく、
症例が沢山報告されているので、
それがリアリティーレベルになっているからだ。

意外なる新規性。

それがフィクションとリアリティーの境目にいるのかもしれない。



最近、鍼灸関連で意外なネタを知り、
それは次回作のどれかに生かそうと考えている。
posted by おおおかとしひこ at 13:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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