2016年11月02日

実験的なことを書くのは、逆に実力がいる

オーソドックスな展開や結末より、
奇妙な設定や奇妙な結末が好きな人がいるかも知れない。
とくに短編はそうだ。
世にも奇妙な物語を代表とするように、
短編は実験的な気風で溢れている。

しかし、実験的なものをきちんと名作にするには、
オーソドックスなものを書くよりも実力が必要だ。


そもそもアンチオーソドックスを書きたがるのは、
オーソドックスに自信がないことが多い。

普通のハッピーエンドを、面白く出来る自信も技術もないから、
それをへんてこに歪めることでアイデンティティーを持とうとする。
若者にありがちな考え方だ。
従来の価値観に縛られない俺カッケー的な、
世の中を斜めに見てるから素晴らしいみたいな。
だから、底が浅くなってしまうのだ。

世の中を描くのに、
まっすぐ見ても斜めに見ても、
どちらのアプローチからでも面白く話を作れる実力がないから、
ただアンチであることのみをアイデンティティーにしがちで、
結局は面白くない話を書きがちだ。
この心理が逆説的に作用するわけだ。


実際、実験的な作品というのは、
一通りオーソドックスなことがきちんと出来る人がやるほうが、
遥かに面白くなる。
オーソドックスを崩すということは、その型を疑うということだからだ。
ピカソは昔ちゃんとした絵を描いてたから崩せた、
みたいな話だ。

たとえば、
「あの時Aを選んだ自分とBを選んだ自分の、
二人の人生を比較する」なんてアイデアが出たとする。
「スライディングドア」をはじめとする、
実験的なネタである。

実際、この出発点は面白くても、
ラストの落ちにうまく着地するのは、
実力がないと難しい。
「スライディングドア」でも落ちきってなかったなあ。
落ち前までは面白くかけても、
結局は、
「どちらを選んでも人生は幸福(不幸)だった」
「偶然ではなく努力が人生を変えるのだ(またはその逆)」
「勘がだいじだ」「無限に成功(失敗)するやつはいない」
あたりの、平凡なテーマに収束せざるを得ないからである。
つまり、冒頭は突飛で実験的でも、
落ちはオーソドックスの範囲内にしか、大抵は到達しないのだ。
これを越えてさらなる実験的な落ちに持っていくには、
相応の実力が必要なことが予測されるだろう。

こうして、実験的なアイデアの作品は、
逆説的に傑作が生まれづらくなるのである。


あなたが若者なら、
実験的なアイデアだけは沢山出てくるかも知れない。
それはなるべく沢山メモしておくとよい。

いつか実力がついたとき、
それを実際に書く日が来るかも知れないからだ。


ちなみに今公開中のてんぐ探偵「胡蝶の夢」の基本アイデア、
「人工知能も自殺する」は、
僕が学生の頃に思いついたアイデアだ。
その後、人の心について書くだけの力がついてきたので、
ようやく実験的に投入できる歳になったというわけだ。
自殺して調査する所までは、誰でも書ける。
そこから落ちまで書くには、アイデアだけでは行けない、何かが必要だ。

さらにちなみに、今別件で実験的なものを作ろうとしている。
学生の頃ならアイデア倒れで落ちを見失っていただろうネタである。
オーソドックスを沢山書いてきたことが、
ここで生きるなあ、と実感した次第。


ということで、
若いうちは、実験的な尖ったものに逃げがちだ。
オーソドックスに正面から体当たりして、
何度も失敗したり成功したりするべきだと、経験的に思う。
(失敗したやつは発表しなけりゃいいのだ)
posted by おおおかとしひこ at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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