主人公一人にフォーカスしてしまうと、
ある問題が発生する
→それを解決しようとする
→解決した
と、メインストーリーラインはすぐに終わってしまうことがよくある。
それを上手く引き伸ばさないと、長編にならないわけだ。
勿論、短編ならばそれでも構わない。
むしろそのコンパクトさが短編の持ち味だ。
(CMなんかは15秒以内で解決するし)
長編というものは、
すぐには解決しない。
それがいつか解決することを期待しながらラストまで見る構造になっているわけだ。
すぐに解決しないようにするには、
問題を複雑に、難しくする、
というのはひとつのやり方だ。
しかし連載長編など、
問題を難しくしすぎて、収拾がつかなくなっているのは、
たまにある。
上手なやり方は、
一見そう難しく思えない問題を餌にして、
取り組んでみたら、想像よりも問題が難しく、深いものだ。
しかしそうそう思いつくわけではない。
そこで、標準的なメインストーリーラインを複雑に、
面白くする方法は、
「他人を介入させる」というものだ。
一人で解こうとしているときに、
別の他人が絡んでくると、
事態は倍ややこしくなる。
更に別の他人が絡めば、二乗倍ややこしくなるかも知れない。
それは、他人は他人で別の事情を抱えていたり、
考え方ややり方が違うからである。
つまり、主人公とは生き方やあり方が違うのが、他人である。
他人はだから、主人公からすれば、
うまくいかない障害になるわけだ。
しかし、他人は障害オンリーとは限らない。
うまく協力したり利用すれば、
一人では全くうまくいかなかったものが、
圧倒的に効率よく速く一気にいくことがある。
これは、リアル世界でもフィクションでも同じである。
他人の介入は、
だから、
味方かつややこしさなんてポジションが丁度いいわけだ。
また、完全に邪魔してくる場合もある。
障害オンリーなわけだ。
これを敵という。
敵視したら、排除ないし不在を出し抜くことが、
解決への早道になるだろう。
こうして、メインストーリーラインは、複雑に、
多段階化していくのである。
言うまでもなく、この他人の介入というのは、
コンフリクトの事を言っている。
脚本理論でコンフリクトといえば、
衝突とか喧嘩ばかりが例にあがるけど、
ハリウッド映画のように人間関係は単純ではない。
だから僕は、
コンフリクトという日本人に馴染みのないものよりも、
主人公のストーリーラインに、他人が介入してくる、
というややこしさのイメージで書き直してみたわけだ。
ようし、コンフリクトを作るぞ、
と構造化するよりも、
普通このまま行けば、どこかで他人の目に触れ、
その人の介入が余儀なくされるだろうな、
という事に自然に気づき、
その人をメインストーリーラインに介入させるとよいだろう。
(もっとも、構造的に先にコンフリクトを作っておいて、
このような自然な状況で最強の宿敵と出会わせるやり方だってある。
矢吹丈と力石徹の出会いは、自然かつドラマチックであった)
主人公の行動や思惑に対して、
どんな他人が介入してくるのか。
人は一人では生きられない。
社会はいろんな人で満ちている。
敵対したり理解しあったりして、
人は人の社会のなかで生きていく。
そもそもそんな他人は、主人公が行動しなければ、
いつもの日常にこもっていれば出会わなかった人である。
主人公が平穏をかきみだすからこそ、
そのような他人と出会う機会が生まれるというわけだ。
主人公が行動したら、
他人がそこに介入する。
その他人もそれなりに事情を抱えているものだ。
こうして、ストーリーラインは複雑に、深くなる。
小さな例題:
うんこをしたくなって駅のトイレに駆け込んだとき、
前に並んでいた特殊な事情の人とは。
その他人をおしのけ、先にうんこをするのが主人公の目的だ。
これはコントにも出来るし、いやな感じの話にも出来るだろう。
解答例:
仮装の人、既に漏らした人、ゲロ吐きそうな人、出産しそうな人、
あるいは就職面接の結果の電話、阪神優勝の連絡、などなど。
こうやって、主人公の小目的に少しでも他人を介入させると、
話は面白く引っ張ることが出来るわけである。
(さらにそれが伏線になり…なんて後で使うと、
もう立派な構造である)
2016年11月05日
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