僕は群像劇否定派だ。
それは、このストーリーラインを物語の構造だととらえると、分りやすくなる。
ストーリーの構造は、ストーリーラインの骨格でとらえられる。
だとすると、
メインの太い軸があり、サブがあるべきである。
あるいは、メインの二本が対になる構造になっているはずだ。
群像劇は、
これらのうち、ストーリーラインがたくさん等価にあり、
メインがあまり太くない構造をいう。
つまり、主と副が区別しにくいものをいう。
それはすなわち、書き手としてのテーマの放棄だといえる。
主のないものを書いているからである。
勿論、どれも大事で、全てのサブテーマの集合体こそがテーマなのだ、
という主張はある。
特に、
混沌としたものを、混沌としたまま表現する、
というやり方において群像劇は有効である。
たとえば「クラッシュ」という群像劇は、
アメリカの銃をめぐる入り組んで混沌とした状況そのものがテーマであった。
しかし、僕の論を眺めている人ならば、
この混沌を俯瞰することは、モチーフに過ぎない、
ということに気づかれるであろう。
混沌を俯瞰するのは、モチーフの素描に過ぎない。
それを整理して、何かを秩序立てて見せられる状態にすることが、
物語形式という秩序を作る行為なのである。
混沌を混沌として表現するのは、写真家の仕事に過ぎない。
(いや、優秀な写真家ならば、
混沌とした状況を整理した一枚絵に収める努力をするはずだ。
そこに何を捨てて何を残すかという、選択の余地があり、
だから写真は芸術の資格を持っているのである。
ただあるものをシャッターを押すだけの行為が芸術的なのではない。
シャッターを押す前に、レンズの前のものを整理する、
という行為が芸術的なのである。
逆に、この行為の省かれているものを、僕は芸術とは認めない。
すなわち、偶然は芸術ではない)
群像劇の問題は、整理されていないこと、そのものである。
ストーリーは、主がすべてをいう。
副がそれを助けたり、裏を見せるためにある。
その為に副が整理されてしかるべきである。
副がややこしくなって主を邪魔する場合は、副を枝刈しなければならない。
逆に主だけしかなくて豊かに見えないのなら、
副をしっかり作りこむ必要がある。
主を決めていない物語は、物語ではないとすらいえるだろう。
それはリーダーのいないアイドルグループみたいなものだ。
その中にいるときは楽しいが、
俯瞰して他人に見せるとき、
芯がなくて、
何を見せてよいかわからなくなってしまうだろう。
その芯こそが、メインストーリーラインである、という話である。
2016年11月05日
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