2016年11月05日

構造はストーリーラインである5: 群像劇

僕は群像劇否定派だ。
それは、このストーリーラインを物語の構造だととらえると、分りやすくなる。


ストーリーの構造は、ストーリーラインの骨格でとらえられる。
だとすると、
メインの太い軸があり、サブがあるべきである。
あるいは、メインの二本が対になる構造になっているはずだ。

群像劇は、
これらのうち、ストーリーラインがたくさん等価にあり、
メインがあまり太くない構造をいう。
つまり、主と副が区別しにくいものをいう。

それはすなわち、書き手としてのテーマの放棄だといえる。
主のないものを書いているからである。


勿論、どれも大事で、全てのサブテーマの集合体こそがテーマなのだ、
という主張はある。
特に、
混沌としたものを、混沌としたまま表現する、
というやり方において群像劇は有効である。
たとえば「クラッシュ」という群像劇は、
アメリカの銃をめぐる入り組んで混沌とした状況そのものがテーマであった。

しかし、僕の論を眺めている人ならば、
この混沌を俯瞰することは、モチーフに過ぎない、
ということに気づかれるであろう。

混沌を俯瞰するのは、モチーフの素描に過ぎない。
それを整理して、何かを秩序立てて見せられる状態にすることが、
物語形式という秩序を作る行為なのである。

混沌を混沌として表現するのは、写真家の仕事に過ぎない。
(いや、優秀な写真家ならば、
混沌とした状況を整理した一枚絵に収める努力をするはずだ。
そこに何を捨てて何を残すかという、選択の余地があり、
だから写真は芸術の資格を持っているのである。
ただあるものをシャッターを押すだけの行為が芸術的なのではない。
シャッターを押す前に、レンズの前のものを整理する、
という行為が芸術的なのである。
逆に、この行為の省かれているものを、僕は芸術とは認めない。
すなわち、偶然は芸術ではない)


群像劇の問題は、整理されていないこと、そのものである。

ストーリーは、主がすべてをいう。
副がそれを助けたり、裏を見せるためにある。
その為に副が整理されてしかるべきである。
副がややこしくなって主を邪魔する場合は、副を枝刈しなければならない。
逆に主だけしかなくて豊かに見えないのなら、
副をしっかり作りこむ必要がある。
主を決めていない物語は、物語ではないとすらいえるだろう。

それはリーダーのいないアイドルグループみたいなものだ。
その中にいるときは楽しいが、
俯瞰して他人に見せるとき、
芯がなくて、
何を見せてよいかわからなくなってしまうだろう。

その芯こそが、メインストーリーラインである、という話である。
posted by おおおかとしひこ at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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