2016年11月09日

二人芝居と三人芝居

あるシーンを書くときの基本は、
二人芝居と三人芝居だ。
実際には、ひとつのシーンにはもっと人がいるときのほうが多い。

しかし、4人だろうが5人だろうが10人だろうが、
ブロックわけすれば、
二人芝居と三人芝居の組み合わせで書ける。
それは、「一度にしゃべるのは一人である」
という暗黙の原則があるからである。


さて、二人芝居から。

これは、コンフリクトそのものである。
双方の事情や目的があり、
それらが矛盾したり競合したり、
一部は一致したり歩み寄れたり、
それらを確認したり誤認したりして、
駆け引きなりをして、
双方の納得のいく結論、
あるいは部分的な結論に達したら、
そのシーンはおしまいだ。

基本は主人公目線で見るけれど、
ラブストーリーなどはどちらから見ても面白く、
感情移入でき、二転三転を楽しめるものであるべきだ。

現実で二人芝居になることは、
実はそんなにないと思う。

会社もので二人になるときは、
相当の緊張度のときだろう。
家族ものでも二人で話すことはかなりの秘密の話だ。
グループから抜けて二人きりになる、
というシチュエーションになるから、
それはよほどの文脈の時になるだろうね。
宿敵同士が二人きりで飲む、なんてのはものすごく特殊な場面なわけだ。

にも関わらず、
初心者ライターは、二人きりの場面ばかりを書く癖がある。
何故なら、二人までしか脳内で動かせないからだ。
「二人芝居の場面は、勝負場面」だと心得て、
以下の三人芝居をちゃんとトレーニングしておくとよい。

コンフリクトは、ふたつの衝突だけではない。
三つの衝突、三つ巴もあり得るのが現実だ。



さて三人芝居。

簡単なのは、「喫茶店で三人が喋る」シーンである。
何故なら移動もアクションもないからだ。
座り芝居だけしていればいい。
(そういえばファミレスの「三名様」ってのがあったね。
深夜ドラマ化もしたのか?)

三者三様の、
事情、目的、人間関係、
興味や焦点などがあることを、
まず把握しておく。
頭のなかで把握しきれないなら、
表に書いてもいい。

ここで先ほどの芝居の原則が働く。
「同時にしゃべるのは、一人まで」だ。

勿論、発言が被ったりすることもあるけれど、
「場を優先して、どちらかが先に話す」
という無言の磁場が働くはずである。
「あのさ」「あのさ」
「あ、そっちから」
「ありがとう。あのね…」
のようにだ。
そしてこの段取りは余程でない限り、お芝居には不要なので、
普通に誰かが発言するところから始めればいい。

ということで、
三人芝居では、
二人芝居が三つ出来上がる。
AB、BC、CAの組み合わせの芝居だ。

三人芝居で注意すべきは、
目まぐるしく二人芝居が移り変わるときの、
「今発言していない人」のことである。
それぞれ、
C、A、Bがその時何を考えているかだ。

単純に、コンフリクトのレフェリー、
第三者になるときが一番多い。
フラットな意見を言ったり、
両者をさばいたりなど。
あるいは興味のない傍観者になることもある。
(その時勝手に何かをしていて、
あとでそれを持ち込むことになる)

また、第三者から当事者になり、
別のコンフリクトを発生させるプレイヤーになったり、
どちらかに加担して、二対一の状況を作ったり、
また、寝返ったりもする。
第三勢力(三つ巴)にもなれば、
単にコンフリクトの強化になったりもするわけだ。

今、何が焦点になっているかも含めて、
これらのどのコンフリクトの状態になっているか、
その変化こそが、流れというやつである。


初心者の書き手は、
まずこれらを、キャラクター押しで書こうとする。
○○は○○の話が好きで、○○が嫌いで、
今○○に興味があって、○○と仲良くて、
こないだ○○があって、
などを設定しておけば、
勝手に話が動き出すと誤解している。
確かに話は弾むかも知れない。
生き生き書けて、笑いも生まれるだろう。
ほんとこの三人が揃うと最高だわ、となるコンビが出来るかも知れない。

ところが。
その設定したことが尽きると、途端に詰まらなくなってしまうだろう。
現実と同じだ。
新しい話題を仕入れてこないと、
おんなじ話になってしまい、詰まらなくなるのである。
そうすると現実と同じで、
「なんかいいことねえかなあ。このメンバー飽きた。
ここにカワイイコ来ねえかなあ」となってしまうのだ。

問題は何か。
設定と話題だけしかないことである。

元に戻すと、
ストーリーとはコンフリクトであった。
つまり、目的のある人と、目的のある人がぶつかることであった。
ぶつからなくても、
軋轢を生じたり、無理があったり、揉めることである。

さあ、こうすることで途端に緊張が発生する。

三者三様の目的があり、
この場で決着をつけるかどうかはおいといても、
何か軋轢がある。
ピリッとした空気が生まれ、
それをどうにかしない限りこの場が収まらない。
収まり、次のことへ話が向けば、このシーンは終わりなわけだ。

そのような三人芝居のシーンを書くことが、
映画的なシーンを書くことなのである。

つまり、
性格とか興味とか話題などを設定する必要など、
極端に言えばゼロでよい。
異なる目的や事情を、事前に設定しておくだけでよいのだ。

簡単な例。
三人が旅行先を決めるための会合。
それぞれ、国内温泉、パリ、アメリカに行きたいとする。
三人が旅行先を決めるまでの会話。

勿論、性格や好き嫌いの設定をしたほうが豊かな会話になる。
しかし、話の骨格は、
行き先をどこに決めるか、になるはずだ。
こういうのは結論から逆算すると書きやすい。
仮にパリにして、書いてみるといいだろう。

さらに、三人の性格を全く異なるようにして、
書き直すのもトレーニングになる。

さらにやってよいトレーニングは、
座り芝居をやめて、
立ち芝居でやってみることだ。
つまり、自由に動ける状態で、何をさせるかを考えると良い。


三人芝居は難しい。
これをマスターすることは容易ではない。

しかし、慣れてきたらさばけるようになる。
何故なら、
「同時にしゃべるのは一人」だからだ。
Aの発言に対して、
Bに次にしゃべらせるか、Cにするかを、
決めればいいからである。
思惑や焦点や話題は、生き物のように都度動く。
適切なタイミングで話せばよい。
話を仕掛けるのか、受けるのか、流すのか、
プロレスのように考えると楽かも知れない。


4人だろうが5人だろうが10人だろうが、
原則は同じだ。
同時にしゃべるのは一人。
それに応じて、
二人芝居や三人芝居にブロックわけしていけばいい。

ということは。
誰が最初に口火を切るかで、
流れが決まってしまうよね。


僕はシンゴジラの閣僚の会話シーンはとても下手だと思う。
言いたいことを言いっぱなしで、
会話劇としては三流だ。

一流の群衆会話劇は、
「11人の怒れる男」「12人の優しい日本人」などを研究するといいだろう。
彼らは最終目的がハッキリしている。
「何が起こったか究明し、有罪か無罪か決めること」だ。
それに向けて、対立や転向が繰り返されるわけだ。
目的のない会話ではないから、
映画になるのである。
posted by おおおかとしひこ at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック