2016年11月10日

敵を倒す物語

ものすごく単純化すれば、
ほとんどの物語はこれに帰着してしまう。

一幕: 平和な日常に、敵がやってくる。
二幕: その敵を倒すため、皆がまとまっていく。
   たいてい犠牲者が出る。
三幕: その敵を倒す。平和が訪れ、皆が成長する。


あとはこれの無限のバリエーションということになってしまう。

主人公や味方のバリエーション、
敵のバリエーション、
まとまり方のバリエーション、
シチュエーションのバリエーション、
犠牲者のバリエーション、
セットアップのバリエーション、
展開のバリエーション、
落ちのバリエーション。

ヒーローもの、少年漫画にこのパターンが特に多いのは、
原始的だからだと思う。
(逆に昨今のライダーはバリエーションすぎて、
基本がどこだか分からなくなっているけど)

大人になればなるほど、
そう簡単な構図に世の中はなっていないことを学ぶ。

単純で純粋な敵はいない。
悪や正義は相対的になる。
それぞれの事情があり、社会的規範を守るか逸脱するかになる。
社会通念が強い。
一人だけの都合でなく、集団との折り合いなどもある。
未熟な動機は未熟のそしりをうける。
それぞれの勢力の拮抗がある。
過去の恩義や義理や、未来の約束や契約が現在に効いてくる。

などだ。

つまりざっくり言うと、大人の世界は複雑になるのだ。

この複雑で現実に近い世界が、
一瞬、子供にでも分かる単純で原始的な、
「敵を倒す」物語になったとき、
人は燃えるのではないだろうか。


つまりは、我々脚本家のやるべきことは、
いかにして、
現実にありそうな、リアルな社会を創作しておいて、
それが「敵を倒す」テンプレにはまるように、
逆算して作っておき、
徐々に単純に原始的な話に収束するように、
展開していくことではないだろうか。
(たとえばドラマ「IQ246」はそのリアルな社会を前提に出来ていないので、
上滑りしている)


テンプレを既知として変形させるのを奇道
(たとえばラスボスは不在、ラスボスは自分、ラスボスは恋人、
タイムパラドックスを使ってループ、バッドエンドなど)、
テンプレ通りに収束していくのを王道、
と呼ぶのではないか。


なんとも単純化しすぎていて、
拍子抜けする話をしている。

だけど、トランプの勝利を見る限り、
「混迷し複雑化し情報が飛び交い、何が真実か分かりにくいこの時代を、
原始的なテンプレで斬ることで、燃えやすい物語にした」
ことが、民衆の支持を生んだのではないか。

ちなみに、これと同じことをした男を僕らは知っている。
ヒトラーである。
敵は金貸しの流浪の民、ユダヤ民族だった。

逆にいえば、民衆は、原始的な物語に扇動されやすい。
陪審員制度は、状況を単純な物語に組み直せる能力のある弁護士が勝つ。

トランプという21世紀の物語演説家に対して、
別の物語作家が現れるのか、
物語ではなく現実を見よという政治家が現れるのか、
そこはまだ分からない。
少なくとも、各集団の調整役という日本のまつりごとのやり方では、
原始的なテンプレに飲み込まれそうだね。
posted by おおおかとしひこ at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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