2016年11月19日

何故私たちは少し年下の話を書くのか

それは、私たちはその年の時に、
天下を取れなかったからだ。


高校生が主人公。
大学生が主人公。
社会人一年目が主人公。
○○という職についたばかり。

自分の実年齢より(少し)年下の話を書くのは、
その年齢の時、あなたは失敗したからではないか。
はっきりした失敗、というよりは、
「なにもしなかった」「大したことが出来なかった」
かも知れない。

その時にぼーっとしていて、
あるいは焦っていて、あるいは怖くて、
あるいは不遇で。

世間のそういう物語は、キラキラしたり充実したりしていて、
でも自分の人生は非リア充で。

もしあの頃に戻れるのなら、
ああいうことが出来たかも知れない。
あの時、仮にこういうチャンスがあったのなら。

そういう思いが、
今の自分よりも年下の年代の話を書く動機になるのではないか。

極端に言えば、女子高生にモテモテになる話は、
高校の頃モテなかった奴が書くのだ。
そして、高校の頃モテた奴にリアリティーがないなんて非難されるよりも、
リアリティーがなくとも願望の実現を喜ぶ声の多さによって、
その話は世に存在を許されるのである。


青春時代を充実できなかったおじさんが、
あり得たかも知れない青春物語を書く。
それは、心の傷を何度もフラッシュバックさせながら、
己を癒していく行為かもしれない。

それは、その力が強いほど、
作者だけではなく周りの人をも癒す力を持つ。
そうでなければ、作者のオナニーに過ぎないのだが。


「私は架空の世界で、過去のやり直しをしている」
そう自覚してみよう。
過去のやり直しなんだから、
昔は出来なかった無茶も出来るし、
昔は出来なかった勇気を見せたり、心を開く行為も出来る。

それは過去なのだから、
充分客観性を持てるほどに、
リアリティーを確保できるはずだ。



こういう原理で、
同年代を主人公にせず、
下の年代を主人公にする話がとても多いのだ。
(そこに出てくるオッサンやジジイこそが、
作者の投影だったりするのだね)

下の年代だけでない。
異性を主人公にするのは、
「もしあの時女(男)だったら、
○○出来たかも知れない」
なんて思いが下敷きにあることが多い。


それを知ったからといって、どうなるわけでもないが、
創作者特有の心理は、創作者以外には理解されないし、
理解しあうべきでもないと思う。

あくまで、心の奥底に届く、面白い話かどうかということが勝負だと思う。
posted by おおおかとしひこ at 13:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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