ツィッターが馬鹿発見器と言われて久しいが、
そもそもデジタルは、馬鹿をそこそこ隠蔽している。
たとえば書類作成ひとつにしても、
手書きならば、
思考や要点が整理されている人が、
短時間で書くものである。
それがデジタルになっても、
短期間で整理された思考を書き留めるだけで終わる。
優秀な人の資料作成というのはそういうもので、
資料とは、整理された思考や要点を読むものである。
ところが、馬鹿はそもそも思考や要点が整理されていないから、
いつまでもデジタルの原稿を直し続ける。
これが長時間労働の正体だと、僕は考えている。
ワープロの出現によって、
人は綺麗な字を書く必要がなくなり、
悪字の人が救われた錯覚に陥った。
しかし実際のところ、綺麗な字とは、
整理された思考や要点と一致していたのだ。
悪字の人間は、やはり思考がスパゲッティであったのだ。
それが、
綺麗なフォントで印字されたことで、
綺麗な思考か汚い思考かは、
中を読まなくては判断できなくなってしまった。
かくして、
中身の読めない馬鹿が、
中身を好みで選び、
整理された思考か整理されていない思考かを、
判断できなくなり、
あとはグズグズになってゆく。
デジタルの資料作成でも同じだ。
イラレやパワポで、
最終的には綺麗に仕上がるものの、
そこにどれだけの試行錯誤があるかは、
デジタルには反映されない。
手書きならば、一発がきかどうかは見れば分かるのに。
表現とは、整理された思考のことである。
馬鹿がデジタルを使って、
整理された思考のように見える、実質ノイズを増やし続けている。
かくして、
ノイズだらけのデジタル世界では、
コミュニケーションスピードの速い、
写真が主流になるわけだ。
で、馬鹿発見のスピードも結果的に上がるという。
デジタルは人を幸せにしない。
デジタルでまとめられた文章の資料を、僕は信用しない。
要点を口で説明してくれと、直接言うことにしている。
相手が馬鹿かどうか、見極めるためである。
ちなみに、僕はキーボードで文章を考える人も、
ほとんど信用しない。
キーボードでまとめた思考はあとで必ず直すからだ。
思考をまとめるのはキーボードではなく、
人だからである。
2016年11月20日
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