2016年11月21日

不幸と幸福2

で、不幸から幸福に至るルートそのものが、
テーマなのである。


たとえば、
ラッキーだけで幸福になる話があったとする。

これは詰まらない。
一瞬ラッキーで面白く見えるが、
最後の最後までラッキーだけで幸福になると詰まらない。
何故かというと、自力で幸せになっていないからである。

人は、
幸福のなり方を知りたいし、
幸福の意味を知りたい。
それが単なるラッキーだとしたら、
それは「意味のない物語」になってしまう。
「全ては偶然にすぎず、じたばたしても意味がない」
という結論だからだ。
(なお、「サイン」では、そのような偶然こそが神の意思である、
ということがモチーフになっている。
キリスト教独特の世界観(神の思し召し)であるため、
時にこの映画は信仰の映画と言われることもある)


ということで、
何らかの、自力で、主人公は幸福を勝ち取らなければならない。
その「やり方」がテーマになるのだ。

仲の良い友達全員で幸福を勝ち取れば、
絆やチーム力の大切さなどがテーマになるだろうし、
欠点を克服することで幸福を勝ち取れば、
その欠点の逆がテーマになるだろう。

あるいは、敵の体現するアンチテーゼを否定することで、
幸福を勝ち取れば、
その逆がテーマになるだろう。

勝つこと、幸福になること、そのやり方。
色々なルートでそこにたどり着くだろうけれど、
最後の印象が一番強いのがいい(パンチライン)。
こうして、
クライマックスの「問題を解決する瞬間」こそが、
テーマを意味することになるのである。


幸福に至るルートは、テーマを暗示する。

あなたがもし中盤を上手く書けないのだとしたら、
テーマが明らかになっていないのかも知れない。

人間の、人間社会の、何をテーマにしたいのか。
それはどのような行動で、言葉で示せるのか。
その結果どうなるのか。

それを決めてから、幸福に至るルートを創作してみてはどうか。
posted by おおおかとしひこ at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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