2016年11月22日

不幸と幸福3

結局人間というのは残酷な生き物で、
「人間というのは、どこまで足を踏み外して不幸になるか、
見てみたい」という欲求がある。

(それは子供でもそうだし、
中高生にも、おばさんにも、おじさんにも、老人にもある。
それぞれの持つリアリティーはだいぶ違うけど)

だから、主人公は不幸になるものだ。
それが劇というものだ。


なんだかんだ言って、
主人公が足を踏み外す様を、みんな見たいのである。

しかし主人公が即死しては話が終わりなので、
作者は、どうにかしてピンチを脱させたりする。
つまり主人公は死なない。

従って、皆はもっと残酷になるのだ。
さらに不幸にしたらどうなるかな、と。

どうなるかは分かっている。死なない。
しかし、
「どうやったらこの足を踏み外した最悪の状況から、
脱出するのか、妥当なリアリティーで見てみたい」
と、作者に対して挑戦的な見方をするのである。

作者がうまいことピンチを抜けさせたら、
「よくやったぞ、さらなる不幸からの脱出劇を見たいぞ」
と更にハードルが上がるのである。


これは、意識的にこうだというわけではない。
恐らく無意識のレベルの話である。
意識下では、
主人公ピンチだ、よくかわした、と思っているだろうし、
世界観や焦点や脇に夢中なだけかも知れない。
しかしその意識の奥底で、
主人公が不幸に落ち込んで行くのを見たい、
いわば暗い無意識が存在することは確かだ。

表面上は「まさか私にそんな感情があるはずがない」とか、
「毎回毎回そういう見方をするわけではない」などと思っているが、
主人公がピンチを適当に脱したり、
たいして不幸にもならずのほほんと生きているのなら、
必ずこういうはずだ。
「シナリオがぬるい。人生はそう甘くはない」と。
つまり、自分の経験してきた不幸と不幸レベルを比べて、
自分のそれより不幸になってほしいと、無意識で思っているはずなのである。

さらに言えば、自分より不幸の脱出が下手くそだと、
やはり「シナリオがぬるい。もっとスマートに脱出出来る。
こいつは馬鹿が書いたシナリオだ」などと考える。

すなわち、
人は自分の不幸よりさらなる不幸を見たいし、
自分より鮮やかにピンチを脱出してほしいのである。

自分のリアル経験だけでなく、
映画体験や漫画小説体験も、そこに含まれているかも知れないが。
(そして中高生はリアル体験よりバーチャル体験の方が多い、
耳年増である)


恐らく、不幸と幸福で物語を見るとき、
こういう見方を無意識にしているのではないか、
というのが僕の説だ。

たとえば漫画「闇金ウシジマくん」みたいな不幸には、
自分は絶対陥りたくないのに、
ついつい見てしまう我々の無意識。
(地獄巡りの楽しさ)
そこから這い上がる時の、平凡な私たち以上の努力や脱出法。
自分にはとても出来ないことを、すげえなあと見守る娯楽。

これは全て、
自分より不幸を見たいし、自分より鮮やかに解決してほしい、
という欲望に基づくのではないかなあ。



作家は物知りでなければならない、
というのは、
ひとつには、様々な不幸を知らなければならないということと、
様々な幸福に至るルートを知らなければならないことを、
含むと思うのだ。
posted by おおおかとしひこ at 01:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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