結局人間というのは残酷な生き物で、
「人間というのは、どこまで足を踏み外して不幸になるか、
見てみたい」という欲求がある。
(それは子供でもそうだし、
中高生にも、おばさんにも、おじさんにも、老人にもある。
それぞれの持つリアリティーはだいぶ違うけど)
だから、主人公は不幸になるものだ。
それが劇というものだ。
なんだかんだ言って、
主人公が足を踏み外す様を、みんな見たいのである。
しかし主人公が即死しては話が終わりなので、
作者は、どうにかしてピンチを脱させたりする。
つまり主人公は死なない。
従って、皆はもっと残酷になるのだ。
さらに不幸にしたらどうなるかな、と。
どうなるかは分かっている。死なない。
しかし、
「どうやったらこの足を踏み外した最悪の状況から、
脱出するのか、妥当なリアリティーで見てみたい」
と、作者に対して挑戦的な見方をするのである。
作者がうまいことピンチを抜けさせたら、
「よくやったぞ、さらなる不幸からの脱出劇を見たいぞ」
と更にハードルが上がるのである。
これは、意識的にこうだというわけではない。
恐らく無意識のレベルの話である。
意識下では、
主人公ピンチだ、よくかわした、と思っているだろうし、
世界観や焦点や脇に夢中なだけかも知れない。
しかしその意識の奥底で、
主人公が不幸に落ち込んで行くのを見たい、
いわば暗い無意識が存在することは確かだ。
表面上は「まさか私にそんな感情があるはずがない」とか、
「毎回毎回そういう見方をするわけではない」などと思っているが、
主人公がピンチを適当に脱したり、
たいして不幸にもならずのほほんと生きているのなら、
必ずこういうはずだ。
「シナリオがぬるい。人生はそう甘くはない」と。
つまり、自分の経験してきた不幸と不幸レベルを比べて、
自分のそれより不幸になってほしいと、無意識で思っているはずなのである。
さらに言えば、自分より不幸の脱出が下手くそだと、
やはり「シナリオがぬるい。もっとスマートに脱出出来る。
こいつは馬鹿が書いたシナリオだ」などと考える。
すなわち、
人は自分の不幸よりさらなる不幸を見たいし、
自分より鮮やかにピンチを脱出してほしいのである。
自分のリアル経験だけでなく、
映画体験や漫画小説体験も、そこに含まれているかも知れないが。
(そして中高生はリアル体験よりバーチャル体験の方が多い、
耳年増である)
恐らく、不幸と幸福で物語を見るとき、
こういう見方を無意識にしているのではないか、
というのが僕の説だ。
たとえば漫画「闇金ウシジマくん」みたいな不幸には、
自分は絶対陥りたくないのに、
ついつい見てしまう我々の無意識。
(地獄巡りの楽しさ)
そこから這い上がる時の、平凡な私たち以上の努力や脱出法。
自分にはとても出来ないことを、すげえなあと見守る娯楽。
これは全て、
自分より不幸を見たいし、自分より鮮やかに解決してほしい、
という欲望に基づくのではないかなあ。
作家は物知りでなければならない、
というのは、
ひとつには、様々な不幸を知らなければならないということと、
様々な幸福に至るルートを知らなければならないことを、
含むと思うのだ。
2016年11月22日
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