そういえば忘れてたことだけど、
僕が映画を一人で見るようになったのはいつ頃だろうか。
小学生は親とか友達と一緒だった。
中学か高校だったかなあ。
高校生だかのツイートで、「映画だって一人でいく」なんて強がりを見て、
「映画とは何人で見るべきものか」
という議論があるなあ、と。
正確に言えば、
一人で見るタイプの映画と、
みんなで見るタイプの映画があると思う。
両者の違いは明らかで、
いやらしいシーンがあって、
気まずくなるのが、みんなで見る映画。
いやらしいシーンをワクワクして見るのが一人で見る映画。
いやらしいシーンというのは言葉の綾で、
つまり、
表現というのものには、
一人で見るべきものと、みんなで見るものがあるということ。
みんなで見る時に、
一人で見るべきものを晒すと、恥ずかしくなったり、
顔をしかめる人が出るということ。
一人で見るべきものは、なんだろう。
性的欲望、暗い欲望(名誉欲とか)、
殺人などの衝動など反社会的言動や思想を楽しむもの、
ビターエンドやバッドエンドなどかなあ。
大人には愚行権がある、という話をした。
大人ならば、プライベートでは何をやってもよい。
他人に迷惑をかけなければ。
愚行に責任が伴うからだ。
犯罪的行為だろうが、処罰の対象でなければ何をやってもよい。
SMなどは合意の上での暴力行為であり、
他の人に迷惑をかけない限り何をやってもよい。
怪我することすら楽しむわけだ。
(結果死んじゃったら犯罪として処罰されるだけである)
つまり、
一人で見る映画は、愚行権を行使するジャンルが含まれる。
恐らくだけど、本という基本一人で読むものには、
そういう悦しみが沢山あるのだろう。
僕は本という文化に触れ損ねて現在に至るので、
その真髄を理解しているわけではないが。
漫画も映画もテレビも、
一人で見るものと、みんなで見るものがある。
(漫画は回し読みをするイメージだ)
一人で楽しむべきものを、みんなの前には出さないことだ。
もちろん、その集団が理解しあっていることを確認するために、
一人で楽しむべきものを、みんなで楽しむことはある。
(それがクラスタを形成するわけだ。
微視的にも、本の貸し借りによってお互いを理解するコミュニケーションはあるよね)
さて、
あなたは、
一人で見るものを作っているのか、
みんなで見るものを作っているのか、
考えたことがあるだろうか。
恐らく、本当の作品というのは、
一人で見るもののはずなのに、
みんなで見るものになっている、
という、
個人的なものの普遍化のようなことが言えるのだと思う。
初期の宮崎とかね。
シンゴジラは、一人で見るべきものを、
みんなの前に見せたことを、僕は非難しているような気がする。
君の名はは、一人で見るべきものを、
みんなの前に出せるようにコントロールされていると思う。
現代の問題は、
ネットの発達によってクレームがすぐ出来るようになったので、
みんなで見るものが、どんどん中身がなくなっていっていることだ。
尖っているのが削られる、などと表現されるけれど、
尖っていることとは、
一人で見る、愚行権を行使するものであるべきで、
つまりそれは不謹慎と表裏一体なんだよね。
で、みんなで見るものにしか金が集まらず、
一人で見るものには金が集まらない。
ここがプロデュースの現代的問題だ。
一人で見るものはネットに逃げて、
マスに流れなくなってしまった。
(情強以外をはじいている、敷居の高いものになった。
たとえるなら、将棋会館に一人で行かなきゃいけない感じ)
つまりは、文化が痩せてしまっている。
文化というのは、送り手だけでなく、
受け手の成熟と両輪である。
成熟というのは、愚行権を互いに認めあうことである。
みんなで見るものと一人で見るものが、
等価で映画館でかかり、
それは同程度ヒットすべきだと、僕は思う。
2016年11月22日
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