2016年11月22日

何人で見るのか

そういえば忘れてたことだけど、
僕が映画を一人で見るようになったのはいつ頃だろうか。
小学生は親とか友達と一緒だった。
中学か高校だったかなあ。
高校生だかのツイートで、「映画だって一人でいく」なんて強がりを見て、
「映画とは何人で見るべきものか」
という議論があるなあ、と。

正確に言えば、
一人で見るタイプの映画と、
みんなで見るタイプの映画があると思う。


両者の違いは明らかで、
いやらしいシーンがあって、
気まずくなるのが、みんなで見る映画。
いやらしいシーンをワクワクして見るのが一人で見る映画。

いやらしいシーンというのは言葉の綾で、
つまり、
表現というのものには、
一人で見るべきものと、みんなで見るものがあるということ。

みんなで見る時に、
一人で見るべきものを晒すと、恥ずかしくなったり、
顔をしかめる人が出るということ。



一人で見るべきものは、なんだろう。
性的欲望、暗い欲望(名誉欲とか)、
殺人などの衝動など反社会的言動や思想を楽しむもの、
ビターエンドやバッドエンドなどかなあ。

大人には愚行権がある、という話をした。
大人ならば、プライベートでは何をやってもよい。
他人に迷惑をかけなければ。
愚行に責任が伴うからだ。
犯罪的行為だろうが、処罰の対象でなければ何をやってもよい。

SMなどは合意の上での暴力行為であり、
他の人に迷惑をかけない限り何をやってもよい。
怪我することすら楽しむわけだ。
(結果死んじゃったら犯罪として処罰されるだけである)

つまり、
一人で見る映画は、愚行権を行使するジャンルが含まれる。

恐らくだけど、本という基本一人で読むものには、
そういう悦しみが沢山あるのだろう。
僕は本という文化に触れ損ねて現在に至るので、
その真髄を理解しているわけではないが。

漫画も映画もテレビも、
一人で見るものと、みんなで見るものがある。
(漫画は回し読みをするイメージだ)


一人で楽しむべきものを、みんなの前には出さないことだ。
もちろん、その集団が理解しあっていることを確認するために、
一人で楽しむべきものを、みんなで楽しむことはある。
(それがクラスタを形成するわけだ。
微視的にも、本の貸し借りによってお互いを理解するコミュニケーションはあるよね)


さて、
あなたは、
一人で見るものを作っているのか、
みんなで見るものを作っているのか、
考えたことがあるだろうか。

恐らく、本当の作品というのは、
一人で見るもののはずなのに、
みんなで見るものになっている、
という、
個人的なものの普遍化のようなことが言えるのだと思う。
初期の宮崎とかね。

シンゴジラは、一人で見るべきものを、
みんなの前に見せたことを、僕は非難しているような気がする。
君の名はは、一人で見るべきものを、
みんなの前に出せるようにコントロールされていると思う。



現代の問題は、
ネットの発達によってクレームがすぐ出来るようになったので、
みんなで見るものが、どんどん中身がなくなっていっていることだ。
尖っているのが削られる、などと表現されるけれど、
尖っていることとは、
一人で見る、愚行権を行使するものであるべきで、
つまりそれは不謹慎と表裏一体なんだよね。


で、みんなで見るものにしか金が集まらず、
一人で見るものには金が集まらない。
ここがプロデュースの現代的問題だ。
一人で見るものはネットに逃げて、
マスに流れなくなってしまった。
(情強以外をはじいている、敷居の高いものになった。
たとえるなら、将棋会館に一人で行かなきゃいけない感じ)

つまりは、文化が痩せてしまっている。
文化というのは、送り手だけでなく、
受け手の成熟と両輪である。
成熟というのは、愚行権を互いに認めあうことである。


みんなで見るものと一人で見るものが、
等価で映画館でかかり、
それは同程度ヒットすべきだと、僕は思う。
posted by おおおかとしひこ at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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