2016年11月26日

デジタルは人を幸せにしない:身の丈を越えたとき

デジタルに限らず、テクノロジー全般に言えることなのかも知れないが。

身の丈を越えた技術は、
制御しきれないので廃れる。


クルマが何故流行らないのか?
速すぎるやようになり、
訳の分からないテクノロジーが沢山ついてしまったからだ。

ゲームが何故流行らないのか?
グラの進化が凄すぎたからである。

テレビが何故流行らないのか?
認識しきれないほどに画素が上がり、
それに反比例して内容が詰まらなくなったからである。

映画が行き詰まっている気がする。
莫大な予算投入の果てしか、我々にもはや興味がないのだろうか。


テクノロジーは、私たちをほんのちょっとだけ拡大してくれることが快感だ。
何故なら、私たちはテクノロジーで背伸びをしたいからである。

人類の誰かエリートが、
より速くより遠くより高くやるぶんにはいいけれど、
自分にとってのテクノロジーというのは、
背伸び出来るレベル、制御できるレベルで十分なのだ。

現にMacは、スタバで背伸びする為のテクノロジーとして、
生き残っている。
(実際のところ、彼らはメールを打ったりネットを見ているだけなのだ。
昨日の新橋スタバで、ファイナルカット(プロ用の映像編集)
立ち上げてる人が一人いたけど)


私たちは限界まで速くなりたいわけではない。
私たちは、私たちに少し下駄を履きたいだけである。
高すぎる下駄は、怖くて履けないのだ。


クルマは速くなりすぎた。
テレビも画質が上がりすぎた。
デジタルもPC離れが進んでいるのは、
機能が高まりすぎて専門性が出すぎたからではないか。

テクノロジーが流行るのは、
私たちが少し背伸び出来る時だけではないか?
つまり、私たちはたいして進化しないので、
テクノロジーが私たちを幸せにすることは、
将来的にないのではないか?
(サービス提供などの受動的テクノロジーや、インフラは別)


2045年に、デジタルの能力が人類を追い越す、
シンギュラリティーが予測されている。
実は人工知能が人間を追い越し、支配するのではなく、
デジタルテクノロジーが、
今のクルマやテレビのように、
高すぎる下駄のように、
見向きもされなくなって廃れるだけではないかなあ。



「物凄い」はドン引き。
「ちょっと凄いかも」が、一番惹かれる。
こうして、ハッタリとテクノロジーの区別が曖昧になってゆく。
posted by おおおかとしひこ at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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