デジタルに限らず、テクノロジー全般に言えることなのかも知れないが。
身の丈を越えた技術は、
制御しきれないので廃れる。
クルマが何故流行らないのか?
速すぎるやようになり、
訳の分からないテクノロジーが沢山ついてしまったからだ。
ゲームが何故流行らないのか?
グラの進化が凄すぎたからである。
テレビが何故流行らないのか?
認識しきれないほどに画素が上がり、
それに反比例して内容が詰まらなくなったからである。
映画が行き詰まっている気がする。
莫大な予算投入の果てしか、我々にもはや興味がないのだろうか。
テクノロジーは、私たちをほんのちょっとだけ拡大してくれることが快感だ。
何故なら、私たちはテクノロジーで背伸びをしたいからである。
人類の誰かエリートが、
より速くより遠くより高くやるぶんにはいいけれど、
自分にとってのテクノロジーというのは、
背伸び出来るレベル、制御できるレベルで十分なのだ。
現にMacは、スタバで背伸びする為のテクノロジーとして、
生き残っている。
(実際のところ、彼らはメールを打ったりネットを見ているだけなのだ。
昨日の新橋スタバで、ファイナルカット(プロ用の映像編集)
立ち上げてる人が一人いたけど)
私たちは限界まで速くなりたいわけではない。
私たちは、私たちに少し下駄を履きたいだけである。
高すぎる下駄は、怖くて履けないのだ。
クルマは速くなりすぎた。
テレビも画質が上がりすぎた。
デジタルもPC離れが進んでいるのは、
機能が高まりすぎて専門性が出すぎたからではないか。
テクノロジーが流行るのは、
私たちが少し背伸び出来る時だけではないか?
つまり、私たちはたいして進化しないので、
テクノロジーが私たちを幸せにすることは、
将来的にないのではないか?
(サービス提供などの受動的テクノロジーや、インフラは別)
2045年に、デジタルの能力が人類を追い越す、
シンギュラリティーが予測されている。
実は人工知能が人間を追い越し、支配するのではなく、
デジタルテクノロジーが、
今のクルマやテレビのように、
高すぎる下駄のように、
見向きもされなくなって廃れるだけではないかなあ。
「物凄い」はドン引き。
「ちょっと凄いかも」が、一番惹かれる。
こうして、ハッタリとテクノロジーの区別が曖昧になってゆく。
2016年11月26日
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