カット割り(モンタージュ)を覚えたての人がやりがちなこと。
拳を握るアップで決意を表現。
踏み出す一歩で勇気や決断を表現。
震える拳で怒りを表現。
机をトントン叩く手のアップで、退屈やイライラを表現。
手や足は口ほどにものを言うが、
僕はこうしたバーツのアップで感情を表現するのは、
ダサくて下手だと考える。
何故かというと、
上の例は全て一人称の表現だからである。
芝居は感情を表現するものであり、
カット割りはそれを補足するものだが、
その表現すべき感情とは、
一人称ではないのだ。
映画は三人称である。
すなわち、他人と他人の間で話がすすむ。
他人が他人に見せる感情や表情を見て、
私たちはそこで起こることを楽しみ、
夢中になるわけだ。
だから基本は、
全身や顔で感情が表現されるべきであり、
ごく一部の手や足で、他人に伝える感情を表現することは難しい筈だ。
上に挙げた例は、
「他人に悟られないレベルでの、その人の密かな気持ち」
ばかりである。
これは三人称芝居ではない。
勿論、こういう反論も出来る。
パーツのアップを抜くことで、
三人称芝居に一部、一人称を導入できるのだ、
それが感情移入を促進するのだと。
馬鹿言っちゃいけない。
三人称が、他人に見せる自分しか表現出来てないのだとしたら、
あなたの書き手としての技量が低いのだ。
たとえ二人の会話場面だとしても、
Aの他人に見せる感情と、本当はどう思ってるかということ、
Bの他人に見せる感情と、本当はどう思ってるかということを、
会話や間だ表現するのが、
芝居というものだ。
そしてその芝居は、台本の文脈に従うのである。
台本にそれが書いてなければ(大抵は明文化してあるわけでなく、
暗黙として書いてある)、
役者もそれを演じることが出来ない。
やべ、書くの忘れた、手元足元のアップでごまかしとこ、
インサートすれば全体を書き直さなくていいや、
という、姑息手段でしか、手元足元のアップなんて使わないよ。
はじめてモンタージュ理論というものを習った、
部分のアップで感情を表現できるのだ、
やってみよう、
というズブの初心者ならしょうがない。
それは、自分が思ったほどの劇的効果などなく、
平凡な表現で、それゆえ無視されるどうでもいいアップだと、
気づこう。
その感情が、セリフを言わない間や、セリフの選択で表現するのが、
いっぱしのシナリオライターの方法論というものだ。
2016年11月28日
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