2016年11月28日

下手くそなカット割り

カット割り(モンタージュ)を覚えたての人がやりがちなこと。

拳を握るアップで決意を表現。
踏み出す一歩で勇気や決断を表現。
震える拳で怒りを表現。
机をトントン叩く手のアップで、退屈やイライラを表現。

手や足は口ほどにものを言うが、
僕はこうしたバーツのアップで感情を表現するのは、
ダサくて下手だと考える。


何故かというと、
上の例は全て一人称の表現だからである。

芝居は感情を表現するものであり、
カット割りはそれを補足するものだが、
その表現すべき感情とは、
一人称ではないのだ。


映画は三人称である。
すなわち、他人と他人の間で話がすすむ。
他人が他人に見せる感情や表情を見て、
私たちはそこで起こることを楽しみ、
夢中になるわけだ。

だから基本は、
全身や顔で感情が表現されるべきであり、
ごく一部の手や足で、他人に伝える感情を表現することは難しい筈だ。

上に挙げた例は、
「他人に悟られないレベルでの、その人の密かな気持ち」
ばかりである。
これは三人称芝居ではない。


勿論、こういう反論も出来る。
パーツのアップを抜くことで、
三人称芝居に一部、一人称を導入できるのだ、
それが感情移入を促進するのだと。

馬鹿言っちゃいけない。

三人称が、他人に見せる自分しか表現出来てないのだとしたら、
あなたの書き手としての技量が低いのだ。

たとえ二人の会話場面だとしても、
Aの他人に見せる感情と、本当はどう思ってるかということ、
Bの他人に見せる感情と、本当はどう思ってるかということを、
会話や間だ表現するのが、
芝居というものだ。

そしてその芝居は、台本の文脈に従うのである。

台本にそれが書いてなければ(大抵は明文化してあるわけでなく、
暗黙として書いてある)、
役者もそれを演じることが出来ない。


やべ、書くの忘れた、手元足元のアップでごまかしとこ、
インサートすれば全体を書き直さなくていいや、
という、姑息手段でしか、手元足元のアップなんて使わないよ。



はじめてモンタージュ理論というものを習った、
部分のアップで感情を表現できるのだ、
やってみよう、
というズブの初心者ならしょうがない。
それは、自分が思ったほどの劇的効果などなく、
平凡な表現で、それゆえ無視されるどうでもいいアップだと、
気づこう。

その感情が、セリフを言わない間や、セリフの選択で表現するのが、
いっぱしのシナリオライターの方法論というものだ。
posted by おおおかとしひこ at 11:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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